理屈を付けるのが人間の性(さが)

「新1万円札は結婚式の祝儀に不適切?」という見出しのニュースを見た。なんでも新1万円札の顔である渋沢栄一は正妻の他にオメカケさんをも囲っていたことが理由とのこと。それがマナー違反に当たるのか当たらないかは各々の判断に任せればいいじゃないか、というのが私の持論である。気になるならば控えればいいし、気にならないならば使えばいい。

「理屈と膏薬は何処へでも付く」という諺がある。もっともらしい理屈を付ければ人間は何でも信じてしまうから困ったものである。以前、お守りを扱っている神社の神主さんに意地悪な質問をしたことがある。「合格祈願のお守りを買った受験生が、後日”お守りを買ったのに志望校に落ちた”なんて駆け込んできたら、どんな対応をするのか」と。するとその人は「今年はまだそこへ行くタイミングではなかったという神様のお示しですよ」と返すのだという。神様を引き合いに出されてはぐうの音も出ないではないか。これもやっぱり理屈なのである。

結局、人間というのは理屈(理由)が欲しいのである。特に「自分が困った状況に立たされた時」に理屈をつけて自分を安心させたいのである。「厄年だから」「今日の占いがビリだったから」「目の前を黒猫が通ったから」。早い話が責任転嫁である。

本来、理屈というのは自分の目の前に起きた事象(結果)にきちんと紐付いたもの(原因)でなければならない。結果と原因が紐付かないのは理屈ではない。自分の都合のいいように改変するのは屁理屈である。しかし「屁」でも自分が納得できればそれでいいのである。

理屈は問題の解決になるが、屁理屈は解決には繋がらない。

「新郎新婦の門出」と「渋沢栄一の生き方」、この二つにまっとうな紐付けはない。だから今後、祝儀を渡すような場面があっても、私は普通に新1万円札を包むだろう。