選挙カーと除夜の鐘
明日に控えた衆院選を前に、今日も近所を選挙カーが挨拶回りを行っている。
静かな環境でないと作業できない私にとって、あれはどうにも耐え難い。
どうしてあんなに大音量にする?
周囲5mくらいの範囲に聞こえる程度でいいのでは?
候補者の名前よりも騒音の不快さだけが印象付いて、「この候補者には投票したくない」とすら思ってしまう。
ビジネスの世界でも同じことだが、自分を売り込むことよりも、相手の意を汲むことが大事である。
いつまで前時代的なのか。選挙カーのよる周知方法にも誰かイノベーションを起こしてほしい。
その一方、年末の除夜の鐘も近年は肩身が狭くなりつつあると聞く。
そりゃ住宅街の真ん中で、しかも真夜中にゴンゴン打たれちゃ、周辺住民から文句のひとつも出るだろう。
その昔、お寺が山中に建てられていたのは俗世との隔離を目的としていたわけだが、配慮という意味合いももしかするとあったのかもしれない。
もとより浄土真宗は山から下りて市井に根を張り発展してきた宗旨である。そういう意味からすると、真宗が除夜の鐘をする必要はないのかもしれない。
かつては民衆が敬い尊ぶ場所だったお寺も、今や地位も地に落ち、他の職種と「同列」になった。
同列になってしまったことで、「お寺だけ特別扱い」なんて言い分も、今の時代、通用しなくなった。
そういった時代の変化に気づかず、「お寺だから特別扱いされて当然」と思っている前時代的僧侶もいる。
また、今の現実を受け入れたうえで、「もう一度、特別扱いされるような(=一目置かれるような存在)お寺へ」と奮闘している僧侶もいる。
一方で今の現実を受け入れ、「もういいや」と抵抗せず、流れに任せる僧侶もいる。
上の3つの分類でいうならば、私の目指すべき「お寺」は2番目にあたる。
いわば「お寺の再生」である。ただし、昔に戻るのではなく、未来へ進む再生である。
選挙カーも除夜の鐘も、要は「信頼関係の濃さ」が大事なのである。