「がんばれ」不要論

外で作業しているとき、風に乗って複数の幼い子どもの声が聞こえてきた。声の出どころは保育園。どうやら近く運動会があるようだ。

何の練習をしているのかはわからないが、時折聞こえる「がんばれ~」の声。おそらく、かけっこ的な順位を競う競技をしているのだろう。

運動が苦手だった私は子どものころからかけっこが嫌いだった。子どもながらに走る前から結果は分かっていたし、一番最後までレーンにいる私に向かって飛んでくる外野の声援も正直、全く嬉しくなかった。

「順位をつけることは良くないことだ」と知ったのは、それから十数年後の大学に入ってからのことだった。仏の教えでは一人ひとりに個性という名の色があり、そこには上も下もないのだと。比べあっているのはすべての生き物の中で唯一人間だけであり、そのくせそれが原因で人は悩みを作り出しているのだと。

「自分は小さい時から他者と競争するよう教育(洗脳)されてきたんだな」と、その時思った。

現在の僧侶という立場からモノを言わせてもらえば、称賛させるのは1位~3位の人間だけではなく、出場した全員がその権利を有しているはずだ。つまり、10人でかけっこをするならば「一等賞」から「十等賞」まで全員に賞状を与えてほしい。金銀銅に限定するはプロだけでいい。彼らはお金をもらっているのだから。幼児期から「3位までに入れば表彰」なんて教育は間違っていると私は思う。

全員が表彰されるのであれば、「がんばれ」なんて言葉は不要である。「がんばれ」なんて結局は「今の状態(順位)のままではダメだ」と言っているのと同じだからである。

ただ、一部の小学校にあるような「みんなで手をつないで一斉にゴール」というのは私は反対である。身体能力が違うのだから順位は必ず付くし、むしろそれは付けるべきである。付けたうえでそれぞれの努力を認めてあげる、というのが私の持論である。

応援は「がんばれ~」ではなく、「がんばってる~」。小さいうちから大人の競争原理を持ち込まないでほしいと、今の私は声を大にして言いたい。