清め塩
神道は死を“ケガレ(穢れ)”と見る。だから死者と関わった際はケガレを払うため“清め”が必要となる。そのような神道の考え方から生まれたのが「清め塩」である。
一方、仏教では死をケガレと見ない。この世に生まれた以上、死を迎えるのは自然の理であり、そこには浄も穢もないというのが仏教の立場である。むしろ、死を忘れ、生にばかり固執している生者に向けて、死者の存在は己の命の有限性に気づかせてくれるはたらきとして、死はケガレどころか尊いものとして扱われる。
ゆえに仏式の葬儀の場においては清め塩は不要である。
「清め塩は不要」という考え方が世間に広まりはじめてもう30年くらいになるだろうか。それより以前、私が子どものころは清め塩は普通にあったし、参列者も当たり前のように持ち帰っていた。
今や、すっかり姿を見なくなった清め塩。その言葉すらもこれから先、死語となっていくのだろうか。
と、そんなことを漠然と考えていた矢先のことだった。先日、鹿児島市内で行われた葬儀にて清め塩を見かけたのだ。参列者が記帳する受付に「どうぞご自由にお持ち帰りください」とばかりにカゴに山積みにされていた。
大手のグループ系列の斎場だから、「清め塩は不要」ということを知らぬはずはない。
はて? と一瞬疑問に思ったが、よくよく考えれば何も不思議なことではなかった。
そう、ここにいる全員が「仏教徒とは限らない」のだ。参列者の中には熱心な神道の方がいるかもしれない。それを考慮しての清め塩だったのだろう。さすがは大手の斎場である。
つい、自分の価値観で物事を見てしまう。僧侶であるがゆえに仏教的な目線がどうしても先行してしまう。私の悪い癖である。あやうく斎場のスタッフに「お葬式では清め塩を置かないんですよ」とドヤ顔で言うところだった。言葉を発する前に自分で気づけてよかったと思う。
小説家、吉川英治氏の「我以外、皆我が師なり」という言葉を借りて言うならば、清め塩に私の料簡の狭さを教えられたのである。ヒト・モノ問わず、あらゆるものに私は教えられている。
今回、私の師は清め塩であった。実に有難いことである。