ごくたまに応病与薬

医者と釈尊は同業だ。どちらも病気を治す者だからである。

医者は「体」の専門家であり、釈尊は「心」の専門家である。

患者へ施す薬は、適切かつ適量でなければならない。誤った薬を処方すれば、効かないどころか、時に毒となる。

故に問診は「正しく聞き」「正しく診る」なければならない。

「この家族にはこういう話がいいのでないか」と毎回愚案を巡らして法話に臨むが、なかなか応病与薬とはならない。

私の法話はせいぜい漢方薬といったところである。

まれに、法話の最中に熱心にメモを取ったり、黒板の板書きを携帯電話で撮影したりしてくださる方がいる。

それを私は「薬が見事に合った瞬間」と呼ぶ。

僧侶として一番嬉しい瞬間である。

とはいえ、これを自身の努力の賜などと思うのは愚の極みであろう。

腐ることなく法話を続けたことに対する弥陀からのプレゼントと私は受け取っている。

たまに頂くプレゼントだからこそ、喜びも一入である。

名医にはなれずとも、ヤブ医者と呼ばれぬように精進したいものである。