“出”世間話

はじめに

私たちが今、生活しているこの世界を「世間」といいます。

それに対してお釈迦さまは「出世間」の教えを説きました。

出世間とは“日常の私たちの価値基準(=世間のモノサシ)を超えた世界からの価値基準(=仏のモノサシ)”のことです。

世間のモノサシとは損得勘定でモノを考え、行動することをいいます。私たちは皆、自分の内側に「損はイヤだ、得をしたい」という気持ちを持っています。そしてその論理のもと、生活しています。

人がなぜ、老・病・死を恐れるのかというと、それは老・病・死、いずれの状態も生活するうえで損(=マイナス)だと考えるからです。だから誰もがそのような状態にはなりたくないと思い、ある者は一時的な手段で取り繕い、ある者は直視しないないよう思考を停止させます。しかし結局は一人としてこの現実から逃れることはできず、平等に老・病・死を迎えねばなりません。損得勘定の論理では悩みと苦しみの根本的解決はできないのです。

世間のモノサシだけでは絶対に解決できない事柄を、お釈迦さまは出世間の立場から答えられました。出世間に立つ仏のモノサシとは、一言で言えば「優劣をつけない、こだわらない生き方」ということです。

(ところがどうしても世間のモノサシが優位に働いてしまう私たちにとって、仏のモノサシはなかなかすんなりとは受け入れられないわけですが…)

ただし、これを「世間のモノサシを捨てて、仏のモノサシだけを持て」という意味で理解しないでください。私たちが生きていくためには世間のモノサシは必要です。なぜなら私たちはお釈迦さまと違い、世間の中に身を置いているわけですから。

私がここで申し上げたいのは「世間のモノサシだけでは決して人間としての完成には至らない」ということです。持ち物が世間のモノサシだけだと人は悪い方向に向かいやすい。毎日のニュースで報道される事件の数々は、すべて世間のモノサシしか持たない者の暴走した結果であり、その証明にほかなりません。

「世間のモノサシ」とは別にもう一本「仏のモノサシ」を持つ。両者は時と場合に応じて使い分けるものではなく、あくまでも下地となるのは仏のモノサシ。その上に世間のモノサシが重なる。それが実践された先に、人間としての完成が実現するのです。

時にあなたは仏のモノサシに強い違和感を感じることがあるかもしれません。そういう時は一度、「『世間のモノサシ』というフィルターを通して見ていなかったか?」と自身に問いかけてみてください。法話というのは、世間のモノサシを脇に置いて“そのまんま聞く”とが肝要です。はじめのうちは「ふ~ん、そうなんだ」程度で構いません。

この「“出”世間話」がいつかあなたの悩みを解決するヒントとなれば幸いです。