他力本願
ネットニュースに「鹿児島県知事選啓発ポスターに抗議」という記事が出ていた。
内容はポスター内に記載された「他力本願」が本来とは違う意味で使われているということで、抗議文を鹿児島選挙管理委員会へ出したというもの。
提出したのは本願寺鹿児島別院と真宗教団連合鹿児島支部。
こういう時の本願寺派の対応力と俊敏性はすごいと純粋に思う。私も含め、他派は追従はするものの、先頭に立つことは決してしないからこれは大いに反省しないといけない。
抗議を受け、委員会はポスター160枚を刷りなおすことにしたそうだ。真宗の意見が通ったのである。
興味深いのはコメント欄だ。
肯定的な意見ももちろんあったが、反対に抗議文を出したことへの批判が結構あった。
「俗語の意味でも辞書に載っているのだから、いちいち目くじらを立てるのは時代錯誤」
「刷りなおすのも経費がかかる。経費は税金である。本願寺の行動は余計な経費を使わせただけ」
私は真宗の僧侶であるので、やはり僧侶側の肩を持ってしまう。
まず「辞書にも載っているのだから」という意見に対してだが、確かにこれは真宗の僧侶の怠慢が原因と思う。
誤った言葉として一般に広まってしまった時に、正すことなく放っておいたが故に、すっかり定着してしまい挙句、辞書にまで載ってしまったのである。
だが、だからと言って「もう手遅れ」とは思わない。
言葉は時代と共に変化するものである。使われなくなれば死語となり、市民権を得れば新語となる。ならば今一度、本来の意味が浸透させれば、誤った意味は駆逐されるのではないか。だから声を上げることは極めて大事なのである。「まぁいいや」で悪しき歴史は作られた。ならば「違うものは違う」とはっきり言うことで正しい歴史をこれから作ればいい。辞書を盾にするのなら、辞書そのものを変えてやるという気概を僧侶は持つべきである。
二つ目、「余計な経費」という意見に対して。
これはそもそもお門違いである。文句は刷り直しを決めた鹿児島選挙管理委員会に言ってほしい。
ポスター1万枚とかなら刷り直しも止む無しと思うが、たかだか160枚。訂正シールでいいではないか。
抗議文が出なかったら余計な経費はかからなかった、というのは理解できるが、経費のかけ方は工夫できよう。
逆にこれを勉強代と捉えれば、無駄とはなるまい。
起こってしまった事実は変えられずとも、事実に対する意味付けは後から変えられるのである。
このニュースに対する意見は様々あろうが、こうしてニュースになったことで僧俗共に考える機会となったことは喜ばしいことである。もし私が一般人であったならばここで初めてその意味を調べたかもしれない。
「他力本願」は時々話題となる言葉である。私はこれを「今、僧侶として生きているお前は何を語るか?」という阿弥陀さんからのメッセージとして受け取りたい。