磁石こころ

つまるところ、私たちは有形・無形に関わらず、すべてのものに「スキ」と「キライ」のラベルを貼っています。

食べ物にも、仕事にも、人間関係にも、人それぞれに「スキ」と「キライ」がある。

ですが、とりわけ次のものに関しては、おおよそ共通しているのではないでしょうか。

  お金は「スキ」。 貧乏は「キライ」。

  健康は「スキ」。 病気は「キライ」。

  若さは「スキ」。 老いは「キライ」。

「スキ」なものはどんどん求め、「キライ」なものはなるべく遠ざける。

「普通の人間」ならばこれが当たり前です。

そこを上手に突いてくるのが巷にあふれる広告の類。

人間の「スキ」を刺激するから、つい商品を買ってしまうというわけなんですね。

ここで少し仏教の話。

人間の悩みは下の3つのいずれかが根底にある、とお釈迦さまは説かれました。

  「欲」 …集めても集めても満足できず、際限なく求め続ける心

  「怒」…自分の思い通りにならないことに対して腹を立てる心

  「愚」…自分の中の「欲」と「怒」に気づかず、何度も同じ過ちを繰り返してしまう心

心を自分で制御できているうちは、悩みとはなりません。

自分で制御ができない、いわばブレーキが壊れてしまった状態となると、これが悩みとなるのです。

窃盗や詐欺は「欲」、破壊や傷害は「怒」が暴走し顕在化した姿なのです。

分かりやすくするために、これを磁石に置き換えてみます。

磁石には「引き寄せる力」と「反発し遠ざける力」の2種類の性質がありますね。

ですので、

  「欲」=「引き寄せる力」   =「スキ」

  「怒」=「反発し遠ざける力」=「キライ」

となります。

では「愚」はどこでしょう。

答えは「磁石そのもの」です。

心が磁石だから、「欲」と「怒」が生まれるのです。

磁力を持たない「ただの石」ならば「欲」も「怒」も起こりません。

だからお釈迦さまは私たちに「ただの石」になることを勧めたのです。

「ただの石」に至るまでの道すじが仏教です。

「ただの石」とはすなわち「なにごとにもこだわらない生き方」のことです。

ですが、浄土真宗は「ただの石」を目指す教えではありません。

“どれだけ努力しても私は「ただの石」にはなれない”と明言したのが親鸞聖人です。

親鸞聖人が解き明かしてくださった教えはただ一つです。

“私は磁石であると気づくこと”。

磁石に気づくからこそ、我が身の「欲」と「怒」の大きさに気づくのです。

そして磁石に気づいたからこそ、阿弥陀さまの救いが違いないものとして自覚できたのです。

真宗門徒として、私たちの第一歩も、心の磁石に気づくことから始まります。