「第1の欲」と「第2の欲」
当寺には1匹のカメを飼っています。出遇いは私が中学生の頃。夏祭りの縁日(当時、金魚すくいならぬ、「亀すくい」というものがあったのです)で捕まえてきたのがはじまりです。
あれからもう四半世紀。5cmほどだった体長は今や25cmとなり、ずっしりと重い立派なカメへと成長しました。
そんな我が家のカメですが、エサは決まって「カメの餌」。与え続けること25年、変わらない食欲で今日も元気にパクパク食べている姿を見ていると、時にカメのほうが人間よりも仏に近いのではないかと思うことがあります。
その昔、悩み苦しむ原因は己自身の「欲」と「怒り」と「愚かさ」にあると、お釈迦さまは突き止められました。「欲」とはすなわち「欲しがる心」。それはちょうど磁石の「引き寄せる力」のようなものです。
この「欲しがる心」には、実は第1段階と第2段階があります。
第1段階は「○○が欲しい」という段階。お腹がすいたからご飯が欲しい、疲れたから休養がほしい、といった類のものです。この「第1段階の欲」はすべての生き物に共通する欲です。それは「生物として生きていくために必要な欲」であり、さらに言えば「満たされることで消滅する欲」でもあります。従って「第1段階の欲」というのは悪いもの(=排除するもの)ではありません。
悪い欲は2段階目の欲を指します。「第1段階の欲」の、その上にある欲で、お釈迦さまが厳しく戒められたのはこちらのほうです。ちなみに、これは人間しか持っていません。
「第2の欲」、それは「もっと○○が欲しい」というものです。例えば、ご飯が欲しい、に「もっと」が付くと、「もっとたくさんご飯が欲しい」、「もっと美味しいご飯が欲しい」、「もっと珍しいご飯が欲しい」というように発展していきます。この「もっと」というのは現状に満足していない心の状態をいいます。「満たしても満たしても、満たされるどころか逆に飢えていく欲」というのが「第2の欲」の恐ろしいところです。
さて、今、あなたは何枚の洋服を持っていますか? 何足の靴を持っていますか? 何枚の皿を持っていますか? ちょっと考えてみてください。そのうえで「日常的に使用しているもの」はいったいどれほどあるか思い出してみてください。おそらく「いつも大体同じもの」を使っているのではないでしょうか。
その時は欲しいと思って買ってみたけれども、改めて眺めてみると「さして必要でもなかったもの」って家の中に結構あるものです。若いうちはどんどん物を集めます。物を増やすことで、物に囲まれることで、幸せに近づくと思っているからです。ですが、真実に気づいた人は目が覚めるのです「物を集めても、それは結局、部屋が狭くなるだけだった」と。
第2の欲に飲まれる人は自分の身の回りが「不足」に映ります。だから「もっともっと」となるのです。
一方で、第2の欲に打ち克つ人は自分の周囲を「知足」と捉えます。「これで十分」というのが知足です。
欲をテーマによくお金が引き合いに出されますが、お金を手にすること、それ自体は何も悪いことではありません。今の時代、お金は生きていくためには必要です。ですが、十分生活できる以上のお金は不要なものであると仏教は説きます。なぜならそれが新たな欲の火種となるからです。
南米にあるウルグアイの第40代大統領を務めた‟世界一貧しい大統領”ことホセ・アルベルト・ムヒカ・コルダノは2012年、国際会議で次のように演説しました。
貧乏とは、少ししか持っていないことではなく、限りなく多くを必要とし、『もっともっと』と欲しがることである
毎日同じものが与えられても、文句ひとつ言わずにエサを食べている我が家のカメ、2~3日同じものが続くだけで「違うものが食べたいなぁ」とぼやいている私。
カメの姿に、自分の欲の深さを思い知らされるのです。