SDGs
この度、本堂で使っていた仏飯器の台座(お仏飯を乗せる丸い板部分)が新しいものに取り換えられた。
以前使っていたものは黒ずみやひび割れ、一部欠損などが見られ、もうだいぶ古くなっていたので、新調されたことはとても嬉しい。
しかもこの台座に加工された木は、もともと玄関の柱だったもので、今から約3ヵ月前の外壁工事をした際に役目を終え、外されたものである。
それを住職が知り合いの仏具師にお願いして、このような台座に作り替えてもらったのだ。
確か、ひろさちや氏の本(書名は忘れた)だったように思うが、こんな話が載っていた。
王妃より五百着の衣の布施を受けた阿難と、ウダヤナ王との会話である。
「あなたは、五百着の衣を一度にもらい受けてどうしますか?」
「大王よ、多くのお坊さんは破れた衣を着ているので、彼らにこの衣を分けてあげます」
「それでは、破れた衣はどうしますか?」
「破れた衣で敷布をつくります」
「古い敷布は?」
「枕の袋に」
「古い枕の袋は?」
「床の敷物に使います」
「古い敷物は?」
「足ふきをつくります」
「古い足ふきは、どうしますか?」
「雑巾にします」
「古い雑巾は?」
「大王よ、私どもは、その雑巾をこなごなにさいて、泥と混ぜ合わせて、家をつくるとき壁の中に入れます」
近年、SDGsという言葉が声高に叫ばれているが、持続可能な開発のために「新しい物を作る」というのはおかしな話だと私は思う。真に持続可能な社会を作りたいのであれば「今あるものをとことん使い切る」ことに注力すべきではなかろうか。どれだけ省エネだろうと、新製品を作ってしまえば従来の製品はたちまちゴミになる。その繰り返しは決して持続可能ではない。だからどうしても私はSDGsという言葉が好きにはなれないのだ。
山に生えていた木が、我が家の玄関の柱となって26年。そして今回、仏飯器の台座となった。この台座としての“いのち”が終わったとき、次に生かせられてこそ、私は仏弟子と言えるかもしれない。