真宗の僧侶として
浄土真宗は「聞の宗教」である。修行の多少を浄土往生の条件とせず、ただひたすらに仏法を聴聞せよと説く。だから読経よりも法話に重きが置かれる。そのため法事の際、法話を聞かずに読経だけ済まして帰ってしまうのは、真宗門徒として大変な心得違いと言わねばならない。
ところが法を説く側(=僧侶)に二種の過失がある。「法話を全くしない僧侶」と「法話を必ずする僧侶」である。
前者は僧侶自らが聴聞の機会を奪っているわけだから、そもそも論としてこれは僧侶失格である。
後者は僧侶としては正しいが、「相手の都合」という視点が欠けている。独りよがりな法話は相手にとってただの迷惑となる。
なので私の場合は法話を聞くか否かの選択を参詣者に委ねている。「聞きたいです」と言われればするし、「結構です」と断られたならば潔く引く。
しかし、ここで重要なのは「聞きたいです」という者に法話をすることではない。「結構です」の者をいかにして次回「聞きたいです」につなげるか、ということである。そこに僧侶の本分が問われる。
二人の人間が船から落ちた。片方は泳げる人間、もう片方は泳げない人間。この時、仏さまはどちらを先に救うか?
答えは「泳げない人間」である。
僧侶は「仏さまの代務者」である。ならば心を砕く対象は「結構です」でなければならない。
これが相当難しい。逆に言えばそこに僧侶としての面白みがある。
これまで「結構です」だった者が、ある日を境に「聞きたいです」に変わることがある。回心は仏さまのはたらきである。そのような場に立ち会えると、仏さまの存在がいよいよ頼もしく感じられるのである。