掌を合わせる

大昔、インドの家庭にはトイレに紙がありませんでした。日本と違い、気候が暑いインドでは植物があまり育ちません。だから、お尻を拭く“もの”がなかったのです。そんな理由から当時のインドの人たちは用を足した後、自分の手を使ってお尻を拭いていました(手の汚れは備え付けの砂で、こそげ落とします)。使用する手は必ず左手。時の王様が汚いものに触れるのは左手にせよ、と国民に徹底したからでした。

こうした背景からインドでは左手を不浄な手、右手を清浄な手、とする考え方が生まれました。

仏教の開祖、お釈迦さまもインド人です。もちろんお尻は左手で拭いていました。

ある日のこと、お釈迦さまは弟子たちに、この左右の手の話をしました。

お釈迦さまが右手を上げて尋ねます。「この右手にはどういう意味があるだろうか?」。すると一人の弟子が立ち上がり「お釈迦さま、右手は清浄を意味する手でございます」と答えました。周りの弟子たちも「間違いありません」と頷きます。

「その通りだ。では左手はどんな意味があるだろうか?」「こちらは不浄を意味する手でございます」「間違いありません」

このようなやり取りを通じて、お釈迦さまは最初にここにいる全員がちゃんと手の意味を理解していることを確認した上で、次のように言葉を続けました。

「右手は清浄な手である。これは一切の心の垢(=煩悩)を滅し尽くした者、すなわち仏の心を表す手である。一方の左手は不浄な手である。これはまだ完全には心の垢を落とし切れていない者、すなわちまだ仏とならざる者(=人間)の心を表す手である」

そしてお釈迦さまは左右の掌を合わせて言いました。

「ゆえに弟子たちよ、修行を完成させて私と同じ仏となるために、いつでも掌を合わせることを忘れてはならない。右手は理想とすべき未来の自分である。左手は現在の自分である。理想の自分から現実の自分がどれだけ遠ざかっているか、常に心を正しく観察して、日夜精進せよ」

こうして掌を合わせる行為(=合掌)が生まれました。

お葬式や法事といった場で皆さんは仏さまに向かって合掌されることでしょう。しかし合掌は「ただ掌を合わせればいい」というものではありません。自分の身を振り返り、「欲」「怒」「愚」に気づいていくことに合掌の価値があるのです。

そのまま放置しておくと、心の垢はどんどん積もります。積もりすぎて「もう汚れたまんまでいいや」となってしまった人が「欲」「怒」「愚」に振り回されてしまうのです。

まずは今日の私を振り返りましょう。

合掌は私自身をうつす「心の鏡」です。