お仏壇の主役
ご自宅にお参りに伺いますと、たまに「ごちゃごちゃしたお仏壇」に出遇うことがあります。
故人が生前に好んでいたものが所狭しと並べられているのです。
ビールだったり、タバコだったり、小さなお子さんだった場合には駄菓子だったり、小さなぬいぐるみだったり…。
確かに縁の深かった方へ向けて「何かをしてあげたい」というのは人として当然のことかもしれません。
しかしそれでは「お仏壇」ではなく「故人壇(そんな言葉はありませんが…)」になってしまいます。
ここで今一度、お仏壇の意味を考えてみましょう。
お仏壇の「仏」とはもちろん仏さまのことです。私たち浄土真宗の場合は阿弥陀さまのことを指します。「壇」は一段盛り上がった場所という意味から、私たちが仰ぎ見るところをいいます。私たちが仰ぎ見る阿弥陀さまがおられる場所、それすなわち「お浄土の世界」ということです。「仏壇」という漢字に注目してみてください。どうして木で作られているにも関わらず、「檀(木編)」ではなく「壇(土編)」なのか。それは、地面(=世界)を表しているからです。目の前の木という物質を見るのではなく、その先に開かれたお浄土という‟こころ”を見ていく。それがお仏壇なのです。
話を元に戻しましょう。「故人はお浄土へ生まれて仏さまとなったのだから、その仏さまに供えものをして何が悪い!」。そのように思われる方がいるかもしれません。理屈はその通りです。ただ、その対象が本当に仏さまなのか、故人の生前の延長で見ていないか、そのことをよくよく考えてほしいのです。
ややもすると、お仏壇は「故人が入る場所」と勘違いされやすいものです。そうなると「死人が出なければお仏壇は必要ない」ということになってしまいます。
そうではありません。命の有限性に目覚め、阿弥陀さまというしっかりとした拠り所のもとで今日の命を全うしていく。そのためにお仏壇はあります。死者のあるなしは関係ありません。
あくまでも故人は「私が手を合わす機縁(きっかけ)」です。お仏壇の主役は阿弥陀さまです。くれぐれもその点をはき違えないでください(ついでに言うと、お浄土は「浄らかな世界」なのですからお仏壇の中が雑然としていては浄土になりません。必要最低限のものだけ安置して、スッキリとさせましょう)。