最期を迎えるメダカとの向き合い方
長いことメダカを飼っていると「あぁ、このメダカはもうそんなに長くはないな」と分かるようになる。
死期の近づいたメダカはエサに関心を示さなくなったり、あまり泳ごうとしなくなったり、通常では見られない動きをしたり、といった兆候が表れる。ごくごくたまに元気を取り戻す個体もいるが、ほとんどは早くて翌日、持って一週間で命を終える。もう体を起こす力もなく、水底で横たわって、辛うじてエラだけが動いているメダカを目にすると「今日が最期か」といつも思う。何かを訴えるように、まんまるなメダカの目がいつまでも私を見つめている。
世間で臓器移植が話題になっていた頃、脳死を死として認めるかどうかという議論があった。
脳が死ぬと各臓器に指令が送られなくなるので、他の臓器も順に活動を停止する。一度死んでしまった脳は生き返らない。ゆえに脳が死ぬと必然的に生命活動を維持できなくなるので脳死は人の死である、という論理である。
平たく言えば「どうせ死ぬのだから」ということである。
それが正しいのかどうかを論じるつもりはない。
医学的立場、仏教的立場、心情的立場、それぞれで見方が異なるからである。
ここで言いたいのはメダカの飼い主の中でも「どうせ死ぬのだから」の解釈が異なることである。
横たわってしまったメダカはもう99%助からない。ただ死を待つのみである。
世の中にはその時点でメダカを水槽から出す人がいる。いわば脳死と同じ考えだ。
私はというと、メダカとしての天寿を全うさせたいという思いがあるから完全に呼吸が止まるまでは何もしない。
水槽から出すのは「ひっくり返って水面に浮かんでいる、もしくは水底に沈んでいる時」である。
もちろんこれはメダカに対する私の死生観であって、絶対にこれが正しいとは思っていない。
「どの時点で死と定めるか」、また「どの時点で生の始まりと定めるか」。
正解なんてものはないが、人は自分なりの答えを持っておかねばならない。
メダカはいつも問いを私に投げかけてくれる「いのちの先生」である。