終わりなき欲

 世の中は 金と女が 敵なり   (大田南畝)

一説には「金と女」ではなく、「色と酒」と表記されていることもありますが、お金であれ、女(色恋沙汰)であれ、お酒であれ、身を滅ぼす原因になりやすいという意味では三者に大きな違いはありますまい。人生を安穏に過ごしたいのであれば、お金と女性(と、お酒)はなるべく関わり合いにならないほうがいい、というのは巷に流れるニュースを見れば誰もが肯首するところではないでしょうか。

けれども素直に「はい、そうですね」とならないのが人の性。どうしても抗うことができず、気づけば底なし沼にはまるが如くズブズブと沈んでいく人間の実に多いこと。「まだ足りない、もっと欲しい」という心は、いわば車のアクセル。ブレーキを踏まない限りどんどんスピードが上がります。やがては自分でもコントロールが利かなくなり、ついにはドッカーンと大事故。さらには自分だけでなく周囲にも損害を及ぼしますからこれは余計にタチが悪い。

それを見そなわされたのがお釈迦さま。だからこの私のために、私が心の事故を起こさないように、ブレーキとなる仏の言葉を説いてくださったのです。

「刀葉林地獄(とうようりんじごく)」という地獄には、木の幹から枝葉に至るまですべてが剃刀でできている樹が生えているといいます。そこに落ちた人の末路はおおよそ次のように説かれています。

その地獄に落ちた男がヒョイと木の上を見上げると絶世の美女が佇んでいた。女は手招きをしながら男の名を優しい声で呼び続けている(落ちた者が女性の場合はこれが逆になる)。男は居ても立っても居られず無我夢中で木に手をかけ足をかけ、登り始める。登るごとにザクリザクリと容赦なく剃刀が体を切り刻む。皮が破れ、肉がはみ出しても男は伸ばす手を止めない。頭の中は身体の痛みよりも女のことで頭がいっぱいだからだ。そしてとうとう男は天辺に到達した。さぁこれで女を抱けるぞ、と男が喜んだのも束の間、どういうわけか先ほどまでいた女がいない。するとどこからともなく女の声がする。男が声のするほうに目を向ける。不思議なことに女は木の根元に立っていた。木の下から男の名を呼んでいるのだ。男は再び全身を真っ赤に染めて木を降り始める。男が木を降りきった時、女はまた木の上にいた。

この話は人間の飽くなき欲の姿を表しています。男は「私自身」、女は「欲望の対象」。身を削り、心をすり減らし、苦労して手に入れても時が経てば、みな色あせてしまうもの。だから次が欲しくなる。手に入れても手に入れても満たされないのに、愚かな人はこれを死ぬまで繰り返してしまう―。刀葉林地獄の話は「ほかでもないこの私がそうであった」と気づかせるため、比喩を用いて訓えているのです。

さて、冒頭の歌には下の句があります。

それは「どうぞ敵に めぐりあいたい」というもの。

まだまだ仏さまは休めそうにありませんネ。