六曜と仏教
「友引の日に葬式をしてはいけない」という話はよく聞く話です。友引は‟友を引く”、つまり参列者の中から新たな死人が出るかもしれないからこの日は避けよう、という考え方です。そりゃ中には亡くなる方もいらっしゃるでしょう。ただしその理由は「友引の日に葬式をしたから」ではありません。「諸行無常だから」です。
結婚式やら宝くじには「大安」の日を選び、葬式は「友引」の日を避ける―。普段はそんなことを毛ほども気に留めないのに、特別な日に限っては気にしてしまう。実際のところは「本気で信じている」というよりも「何か気になる」程度のものなのでしょうけれども、その「何か気になる」状態のことを仏教ではズバリ、迷信(=正しい道が分からずに迷っている状態)というのです。
そもそも六曜の起源は古代中国における時刻の吉凶占いが始まりです。
その意味はおおよそ次のようになります。
【先勝】:午前は吉、午後は凶
【友引】:朝晩は吉、昼は凶
【先負】:午前は凶、午後は吉。
【大安】:終日吉
【赤口】:正午の前後のみ吉、それ以外は凶
【仏滅】:終日凶
日本へ六曜が伝来してきたのは室町時代末期のころで、当時は「友引」ではなく「共引(共に引き分けるの意)」、「仏滅」ではなく「物滅(物がなくなるの意)」でした。言葉が変化したのは江戸時代末期のことで、語呂合わせから「友引」「仏滅」となり、原意とは全然関係ない言葉になってしまいました。それにも関わらず、友引・仏滅は現代まで引き継がれ、「何か気になる」ものとして多くの日本人の心に巣食っているのです。実に馬鹿げた話です。
結局のところ、人は身の上に起きた不運を「何かのせい」にしたいのです。
適当な理屈を付けることによって自分が安心できるからです。六曜もその一つというわけです。
しかしそれはあなたの「自己中心的な心」以外の何ものでもありません。
仏さまの教えを聞き続けると自分の中の「自己中心的な心」がだんだんと明らかになっていきます。
明らかになればもう迷信に惑わされることはありません。迷信に惑い、それをつい信じてしまうのは自分の姿が明らかになっていない証拠です。だから一刻も早く迷いから目覚めるために仏法聴聞が必要となってくるのです。
心が目覚めると、「日に良し悪しはなく、私が ‟勝手に” 良し悪しを日に結び付けていた」ということがよく分かります。
