指月の譬え ~いのちの天秤の話~
インドの僧、龍樹(西暦150-250年頃)言葉に「指月の譬え」という話があります。
人の指を以って月を指し、以って惑者に示すに、惑者は指を視て、月を視ず。人、これに語りて、
『 われは指を以って月を指し、汝をしてこれを知らしめんとするに、汝は何んが指を看て、月を視ざる』、と言うが如く(『大智度論』)
これは月を知る者(=覚者)が、月を知らぬ人(=惑者)に向かって「月はあれだよ」と指さしても、惑者は指のほうを見るばかりで肝心の月を見ようとしない、という意味で、「‟言葉”に注目するのではなく、その言葉が指し示す‟こころ”に注目しなければ真理には到達できない」ということを表しています。真理に到達するためには言葉が不可欠ですが、言葉はあくまでも方便(手段)であって、真理そのものではありません。
つまり、「(仏典を読むときは)ただ言葉を読んで終わりではなく、さらにもう一歩考えを深めて、その先にあるものを見つけよ」と龍樹は言っているわけです。
では、今月は「いのちの天秤」というお話をしましょう。
むかしむかし、とある国にシビ王という王さまがいました。シビ王はとても慈悲深く、国民はもちろん、動物や、小さな生き物たちにまで平等にやさしく接しておりましたので、国中の誰からも慕われていました。
ある日のことです。シビ王がお城の庭を歩いていると、 突然一羽の鳩が胸の中に飛びこんできました。ひどく慌てた様子で体はブルブル震えています。
シビ王が尋ねます。「鳩よ、どうしたのだ?」。「鷹に命を狙われているのです。王様、どうか助けてください!」と鳩は懇願しました。「わかった。では私がお前をしばらくの間、匿ってあげよう」。状況を理解したシビ王はすぐさま鳩を自分の懐に入れました。
するとそこへ鷹がやってきました。「おい、ちょっと待て。今、お前が鳩を懐に入れるところを俺は空からしっかり見ていたぞ。そいつは俺の獲物だ。さっさと出せ!」。睨みつける鷹にシビ王は落ち着いた声で言いました。「鳩に『お前を助ける』と約束した以上、それはできない。それに目の良いお前ならば、この鳩でなくとも動物の死骸でもなんでも簡単に見つけられるだろう。だからこの鳩はどうか見逃してあげて欲しい」。「それは無理な相談だ。なぜなら俺は血の滴る生きた肉しか食べられないからだ。それに俺はもう何日も餌を口にしていない。今、その鳩を食べなければ俺は確実に死んでしまう。それともお前は俺に死ねと言うのか?」。「いや、そんなこと決してない。鳩の命もお前の命も両方大事だ」。
そこでシビ王は言いました。「ならば私の肉をあげよう。それなら文句はないはずだ」。
「お前がその鳩と同じ重さの肉をくれるというのなら」。
シビ王は家来に命じて巨大な天秤を用意させ、片方に鳩をのせました。天秤は鳩をのせたほうに傾きます。そしてよく研いだナイフで自分のお尻の肉を切り取り、反対側にのせました。しかし天秤は鳩に傾いたままです。
ふくらはぎ、 二の腕、背中、腹…、血まみれになりながらシビ王は次々に自分の肉をのせていきます。シビ王の肉のほうが明らかに鳩より重いはずなのに天秤は未だピクリとも動きません。
「どうした? いっそのこと鳩を差し出したらどうだ? そうすればお前もこれ以上痛い思いをしなくて済むぞ」。あざ笑うかのように鷹が言います。
その時でした。シビ王はハッと‟あること”に気づき、持っていたナイフを地面に投げ捨てました。そしてそのまま「自分ごと」天秤の上に乗りました。すると天秤はスーッと動き出し、はじめて水平となったのです。
‟いのちの重さ”とは単純な質量の話ではありません。
鳩一羽の‟いのち”は、シビ王一人分の“いのち”と同等です。それ以上でもそれ以下でもありません。
だから‟いのち”には差がないのです。
スーパーの商品にはすべてに値札が張られていますが、あれは‟いのち”の値段ではなく、それに携わった人間に対する手間賃です。それを勘違いすると、人間同士でも値踏みが行われるようになります。怖いですね。
鳩も鷹も人間も‟いのちの重さ”は同じ。ということはすなわち、仏さまの‟いのちの重さ”も、まったく同じであるということです。さらにいえば、仏さまはご自身の“いのち”をすべて天秤にのせて、この私が天秤の上にのってくれることをずーーーーーーーっと待っておられるのです。
さぁ、あなたも天秤の上にのって、もう片方の皿に‟いのち”をのせてみましょう。
