しあわせ と ふしあわせ

今日も世界では戦争が続いています。本当に悲しいことです。

莫大なお金で互いを傷つけ合い、終結したらしたでまた莫大なお金を使って復興する―。

これっておかしいと思いませんか?

そもそも戦争を始めなければ、その莫大なお金は他のことに、もっと有意義なことに使えたんですよ。

それに、一度壊れたものはたとえ大枚をはたこうがもう元通りにはなりません。

壊れた家を建て直したところで、それは「新しい家」であって、「以前の家」ではありません。

戦争は建物だけでなく、人間関係も思い出も歴史も未来もすべて壊します。

ワガママを漢字で書くと我儘。自分の思い通りにしたいという自己中心的な心です。

自分を中心にするから周囲が見えない。周囲が見えていないからますます我儘になっていく。

こういうのを愚かっていうんですよ。

戦争は愚かです。愚か者と愚か者のぶつかり合いです。

「しあわせ」という言葉があります。

現在では「幸せ」と書きますが、江戸時代までは「仕合わせ」と書いていました。「仕え合わせる」とは「助け合う」ということ。もともとは互いに自分のなすべき仕事を果たすことで得られる気持ちを「仕合わせ」といったのです。つまりそれは‟棚ぼた”のような、自分は何もせずとも向こうから福徳がやってくるという話ではないということです。自分から率先して相手のために尽くすことで仕合わせはやってくるのです。昔の人は正しく「しあわせのありかた」を理解していたんですよ。

そんな「仕合わせ」をもじって、「指合わせ」と書いた人がいました。

指と指が合わさる姿、それは合掌の姿です。合掌できるということは「仕合わせ」なのだと。

反対に、両の手を固く握りしめると何ができるか? そう、拳(こぶし)ができます。

拳と拳がぶつかり合う、ふしとふしが合わさるから、これは「節合わせ(=不幸せ)」なのだと。

拳と拳がぶつかり合う姿は争いです。互いに相手に負けたくないと思うから体も心もグーッと固くなる。

その成れの果てが戦争です。

だからどんな大義名分を掲げようと、自分の中に拳を作った時点で「節合わせ」が始まっているのです。

人間誰しも心がグーになる瞬間はあるでしょう。

ただ、その時にハッと気付いて握った拳を開ける方と、握りしめたまま高く振り上げる方がいます。

前者を仏といいます。

後者を鬼といいます。

仏さまの手はいつだってパーです。仏さまは私たちに向かって「どうかお前も手を開いておくれ」と合掌して願っておられます。

「しあわせはパー、ふしあわせはグー」

自分の心を見つめ直すための‟合い言葉”です。