宗教が異なる場合のお参り
あなたが浄土真宗の門徒だとして、もしもキリスト教徒の方の葬儀に参列することになったなら、あなたは「浄土真宗の作法」で葬儀に臨みますか? それとも相手に合わせて「キリスト教の作法」で葬儀に臨みますか?
おそらく日本人の多くは郷に入っては郷に従えの精神で「キリスト教の作法」を選ぶのではないでしょうか。
ただ、そうは言っても具体的な作法など知るよしもありませんから、とりあえずなるべく後ろの席に座り、前の方のやり方をじっくり観察して、「こんな感じかな」と見よう見まねで“それっぽいこと”をし、「我ながら上出来上出来」と席に戻るのが関の山というところでしょう。しかしいくら形だけ真似てみたところで、それは本当に真心からのお参りといえるのか一度考えてみてほしいのです。
ここで「宗教」という言葉について解説してみましょう。
「宗」の字は訓読みで「むね」と読みます。「むね」とは中心のことです。「胸」「棟」「旨」も同じく「むね」と読む字ですが、これらはそれぞれ「体の中心」「建物の中心」「事柄の中心」を表します。では「宗」はというとこれは「生き方の中心」を意味します。つまり、何を中心(拠り所)として生きているかが「宗」という字なのです。
「教」は目的地へ至るまでの手立てです。いわば正しい方向を指し示してくれる方位磁石のようなものです。正しく方向が定まらなければ私たちは目的地へ着かないばかりか途中で迷子になってしまいます。学問にせよスポーツにせよ料理にせよ、どんな世界にも教えがあります。教えがあるからこそ我々は先人の跡を辿ることができるのです。
従って「宗教」とは「拠り所に則した日々の歩み」ということになります。
これまでを浄土真宗で生きてきた方であるならば、たとえキリスト教の葬儀であろうとも十字架の前で堂々と合掌し、「南無阿弥陀仏」と称えればいいのです。これは別にキリスト教を蔑ろにしているわけではありません。拠り所としているものの違いというだけです。故人がキリスト教徒である以上、お浄土での再会は叶いませんが、大切なのは故人との別れを通して自分がいのちに目覚めることにあります。世の無常さ、人の命の儚さを改めて学ばせて貰ったなら表向きはどうあれ、内実は立派な仏法聴聞となるのです。
そのためにはまず、自分の宗旨の作法を正しく知り、日頃から実践しておかねばなりません。
自分の宗旨の作法さえ分からないというのは恥ずかしいことです。
一番の近道はお寺にお参りの際にお坊さんに聞くことです。
せっかく故人が法事という形であなたをお寺へ呼んでくださったのですから、その機会を無駄にしないよう、自分の学びにつなげていきましょう。
