おそだて

本堂でお勤めをする際、私は参詣者の方に『同朋聖典』(真宗興正派の門徒向け勤行集)をお配りしています。さすがに生後間もない赤ちゃんには配りませんが、1歳以上であれば全員に渡します。中には「うちの子はまだ平仮名も読めないんですけど…」とか、「まだ小さいので本を破ってしまうかもしれません」と仰る親御さんもおられます。それでも私は「たとえ読めなくても全然構いません。“みんなと一緒”ということが大事ですから」と話し、『同朋聖典』が全員の膝の上にある状態にしてからお勤めを始めます。

私がそうするようになったのは、過去に自分が犯した大きな過ちがきっかけでした。

もう10年くらい前のことです。その頃の私は『同朋聖典』を“読めそうな人”にだけ配っていました。

ある日のこと、発達障害の子を持つご家族の法事をしました。お父さんとお母さん、それにお姉さんが2人、そして発達障害の子の5人家族です。

私は「渡したところで読めないだろう」との思いから、その子を除く4人に『同朋聖典』を渡して読経を始めました。

―しばらくして、ふと横目で参拝席を見た時でした(当寺では建物の構造上、内陣の左側に横向きに座るので、参拝席が視野に入るのです)。お姉さんの1人が自分の『同朋聖典』をその子の膝の上に置いて両手で本を支え、もう1人のお姉さんが今読んでいる箇所をずっと指でなぞっているのです。その子の目は本にありません。別なところを見ています。それでもお姉さんたちは読経が終わる最後まで本を広げ、指で示し続けていました。

その光景に私はかつてない罪悪感を覚えました。平素は「仏教は平等の教えですよ」と言っているくせに、自分のはからいで人を差別している私がそこにいたからです。

正信偈の中に出てくる「邪見憍慢悪衆生」とはまさに私のことでした。相手を選り分け、思い上がりの心で『同朋聖典』を渡さなかった、しかもそれが間違いであることにすら気づかない私だったのです。

2人のお姉さんの行動は私の曇った目を覚まさせてくれました。なにより発達障害のその子こそ、私にとっての善知識でありました。

読経後、すぐさま私はご家族に謝罪しました。そしてその日から私はお参りに来た方全員に『同朋聖典』を配ろうと固く心に誓ったのでした。

本を開くかどうか、文字を読めるかどうか、は私が決めることではなかったのです。本を開くのも開かないのも相手の自由。読んでも良し、読まなくても良し。僧侶の役割は「機会を与える」こと。機会を奪ってしまったことは僧侶として本当に恥ずべきことでありました。

ある法事で、2歳くらいの小さな女の子が周りの大人の真似をして『同朋聖典』を開いていました。しかし本は逆さま。大人たちはその光景にクスクス笑います。

それでいいのです。その子はその子なりに「ちゃんと読んでいる」のです。

今ではそう思える私になりました。