剃髪をしない理由

剃髪をしない理由

一般の方が思い描く「お坊さん像」というのは、頭をきれいに丸めた「坊主姿」なのではないでしょうか。実際、宗旨別にお坊さんを見てみても、大抵はカミソリで見事に剃り上げたツルツル頭か、もしくは五分刈りほどの短髪の方が圧倒的多数を占めています。
そんな中、浄土真宗のお坊さんは一般人と変わらない髪型をしています(もちろん剃られている方もおりますが)。
それはどうしてかというと、私たち浄土真宗は「他力の救い」を教義としているからです。

仏教は、大きく「自力」の教えと「他力」の教えの2つの流派に分かれます。自力とはすなわち「自分の力(=努力)で修行して悟りを目指すグループ」のこと。それに対して他力とは「他(=阿弥陀仏)の力(=功徳)にまかせて悟りを目指すグループ」のことをいいます。
自力の人たちは修行に専念するために、なるべく修行以外のことを削ぎ落していかねばなりません。修行以外のことに心が向いてしまう(=執着してしまう)と、それが目指すべき道の妨げとなるからです。髪の毛は妨げとなるものの一つ。長ければ長いほど洗ったり、整えたりするのに時間がかかります。それならはじめから無いほうがいい。そういった理由から自力の人たちは剃髪をするのです。言い換えると剃髪は「しなければならないもの」なのです。

一方、他力の人たちは阿弥陀仏の力を唯一のたよりとしますから、私たち人間側の努力は一切、悟りには関係ない(=煩悩にまみれた修行など万に一つも功徳の足しにはならない)と教えます。ですので髪の有無は重要なことではないのです。むしろ重要なのは阿弥陀仏のはたらきを疑いなく信じられるかどうか、この一点に全てがかかっています。よって、他力の人たちにおいては剃髪は「してもいいし、しなくてもいいもの」となるのです。

ただ、それを盾にして「髪型は自由でいいんだ」と短絡的に解釈している真宗僧侶がいることはまことにもって残念なことです。それは大変な心得違いというもので、自力で悟りを開けない者を憐れんで、阿弥陀仏がわざわざ立ち上がってくださったわけですから、他力に生きる人間はじこの罪業性を深く深く噛みしめなければなりません。
確かに、教義の上では髪の長短に決まりはありません。しかしそれに甘んじてオシャレに走るのは阿弥陀仏を軽んじる行為であり、とても他力の教えに生きているとは言い難いものがあります。「慎みある自由」。これこそ本来の他力の髪の在り方なのです。

ポイント:浄土真宗において剃髪は「してもいいし、しなくてもいい」。なぜなら「他力の教え」だから。