浄土真宗のお盆
世間ではお盆を「亡くなった先祖が自宅に帰ってくる期間」と理解されている方が多いようです。地域によってその風習は様々ですが、玄関前で“おがら(麻の茎の皮をはいだもの)”に火をつけて迎え火や送り火をするのも、キュウリとナスで精霊馬を作るのも、位牌の前にお膳を並べて精霊棚を設けるのも、根底にあるのは「ご先祖さまが帰ってくる」という考えに起因したもので、形こそ違えど、その心情はみな共通しています。
一方、私たち浄土真宗に限っていいますと、「お盆だからといって特別なことはしない」というのが正解です。
おがらも、ナスやキュウリも、たくさんの料理も用意する必要はありません。お仏壇のお飾りを「三具足」から「五具足」(詳細は「お仏壇の荘厳」の項参照)にするだけです。お盆であろうと、お彼岸であろうと、報恩講であろうとお飾りは五具足。「お盆だから、これとこれを準備して、こういう形にしないといけない」なんてことは言わないのです。
さて、「お盆」という言葉ですが、その語源は古代インド語の「ウランバナ」からきています。インドで起こった仏教が中国へ渡った時、「ウランバナ」は漢字が充てられて「盂蘭盆(うらぼん)」となり、それが日本に伝わって「盆」となりました。「ウランバナ」の意味は「逆さ吊り」。すなわち、ひっくり返った生き方(=考え方)ということです。
なお、ひっくり返っているのは亡き人ではありません。この私自身です。自己中心的な見方に縛られて、正しくものが見えなくなっている状態、それを仏教ではひっくり返っている(=顛倒)と表現します。
「正信偈」の中に、
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身 遊煩悩林現神通 入生死園示応化
という一節があります。
浄土に往生された方は、仏の身となって再び私たちの住まう世界(娑婆世界)へと還ってこられ、この私を仏の教えへと導いてくださる、という意味です。
つまり亡くなられた方は一年中毎日この私のことを案じておられるのです。すぐさま悪に染まりやすい私だからこそ「毎日」なのです。
「亡き人がお盆の3日間だけ帰ってくる」という考え方自体がそもそもひっくり返っているのです。
亡き人は「毎日」です。しかしこの私のほうが毎日ではないのです。毎日は亡き人に心を向けていない(向けられない)のです。だからせめてお盆の期間くらいは亡き人を想いましょう、というのが本来のお盆の考え方です。
「普段は自分のことばかりで、全然お仏壇の前に座れなくてごめんね」
せっかくの機会ですので、ぜひ亡き人と会話をしてみてください。