「かくれ念仏」とは
その昔、鹿児島が薩摩と呼ばれていた頃、当時の藩主であった島津氏は浄土真宗を排斥するために厳しい宗教弾圧を行いました。時代が下るにつれ、その制度や取り締まりは一層厳しくなっていきますが、それでも薩摩の浄土真宗信者たちは教えを捨てることはありませんでした。
「我々が救われていく道は浄土真宗をおいてほかにない」「念仏の教えをここで途絶えさせてはいけない」―。
そのような真宗門徒の信心の強さが彼らを団結させ、各地で「講」と呼ばれる念仏集団を作っていきました。そして彼らは信仰を絶やさないように、独自の信仰形態である「かくれ念仏」を作り上げたのでした。
なぜ島津氏が浄土真宗を敵対したのかといいますと、それは浄土真宗の教えが「阿弥陀仏の前では人は皆平等」というものだったからです。つまり人間同士の上下関係はないというものです。しかしこれは武士を頂点に置く当時の身分制度と真っ向から対立するものであり、政治の基盤そのものを揺るがす考え方でした。特に薩摩藩は全国的に見ても武士の比率が非常に高く(一般的な藩では武士の比率は5%程度だったのに対し、薩摩藩は26%)、もし武士が庶民と共闘して謀反を起こせば、たちどころに倒されてしまう可能性があり、島津氏はそれを防ぐ目的で厳しく禁止したのでした。
かくれ念仏者の信仰形態は「抜け参り」「家の中」「かくれ念仏洞」のいずれかに大別されますが、ほとんどは「かくれ念仏洞」にてお参りしていました。かくれ念仏洞とは、人目につかない家の裏や誰も近づかないような深い山奥等に作られた洞窟のことで、念仏者は監視の役人に見つからないよう嵐や激しい雨の日や月明かりのない夜を選んでは洞窟を訪れ、本尊に手を合わし、隣国から使いの僧が来ると聞けば熱心に法を聞き、皆で念仏を称えあっていました。
薩摩の念仏禁制政策は慶長2年(1597年)に始まり、明治9年(1876年)まで続きます。記録によると、その間に摘発された「講」は70講、処分を受けた念仏者は14万人(当時の薩摩の人口は80万人)と言われています。約300年にわたって続いた為政者と念仏者との攻防の歴史の末に、今の鹿児島の浄土真宗があるのです。
かくれ念仏洞は当時の弾圧の厳しさを今に伝える貴重な歴史遺産であり、単なる観光地ではありません。 私たちは教えを後世に伝えるために先人たちが流した血や涙、そして命を懸けた念仏の声をを忘れてはなりません。
後世に残る写真史料を
かつては県内の各地域に相当数存在していたかくれ念仏洞ですが、自然的(気象条件や土砂崩れ、あるいは風化に依るもの)、および人為的(道路拡張や宅地開発に依るもの)、さらには伝承の断絶等の要因によってその数は減少の一途をたどっています。
また現存する念仏洞においても、自治体や有志の手によって定期的に手入れがされている場所もあれば、その存在が忘れ去られ人知れず消滅を待つばかりという場所もあります。
インターネットで「かくれ念仏洞」と検索して表示される場所は、アクセスも容易で整備もされた「有名な場所」ばかりです。しかし現存する念仏洞はパソコンの中だけではないということを、減少傾向にあるとはいえ他にももっとたくさんあるということを私は声を大にして言いたいのです。
ここで紹介している念仏洞は私が実際に現地へ赴き、中に入って調査してきたものばかりです。断言しますがかくれ念仏洞の掲載数はここが日本一(になるつもり)です。有名な場所はもちろんのこと、あまり知られていない場所まで網羅しているのはこのサイトをおいて他にないと思います。
以前、とある町の文化財課の方にお話を伺った際、次のように伺いました。
「かくれ念仏洞は鹿児島の文化を遺す歴史的価値の高いものだが、戦時中に防空壕として使われたり、後世の人が何らかの理由で穴を拡げたりして二次利用されてしまうと、調査・保存の対象から外れてしまう」。
私が日本一の念仏洞のサイトを作ろうと思ったのはこの時です。公的機関で調査できないのであれば、私が個人で調査をすればいいと考えたわけです。
最後に一つ、とても大事なことを書きます。
ここに紹介している念仏洞の中にはかなり危険な場所も含まれています。念仏洞の場所と行き方は一応載せていますが、これは訪問を勧めるものではありません(現に私も三回ほど遭難しかけています)。皆さんに注意喚起するためのものです。
史料としてこれを遺すものであるという趣旨をご理解の上、次の紹介ページへとお進みください。
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※念仏洞の記事は毎月、第1・第3日曜日に追加しています。