「たまたま」の世界 ―縁の考え方― 〈後編〉
縁とは「出遇い」であり、「私も思いが全く反映されないもの」であり、そして「向こう側から、一方的に私に与えられるもの」であると前回お話しました。
病気にかかりたくないという思いは万民共通のものです。しかしどれだけ強く願おうと、お守りの類いを身につけていようと、病気になる時は病気になります。なぜならそれが縁だから。…と、仏教ではこのように考えます。
ですので、本来、仏教ではお守りやお札を扱ってはいけないのです。それは縁の考え方に反するからです。それにも関わらず一般人が正しい仏教に知識を持っていないことをいいことに、金儲けに走る僧侶が巷には溢れかえっている現代です。これは本当に嘆かわしいことです。
さて、人間を含め、この世に存在するすべての生き物は、皆等しく思い通りにならない縁の中で生きています。ところが人間とその他の生き物とでは一点だけ大きな違いがあるのです。
それは、「人間だけが文句を言う生き物である」ということ。
「なんで自分だけがこんな目に…」なんて言うのは人間だけなんですね。他の生き物はそんなこと決して言いませんし、思いません。現実を受け入れ、じっと耐え忍ぶだけです。人間は「(私の)思い通りにしたい」という気持ちが強すぎる生き物なんです。だからちょっとでも自分の意に反する縁に対して「もう!」という文句が出てしまうのです。
最近よく耳にするようになった「〇〇ガチャ」という言葉。親ガチャ、子ガチャ、上司ガチャ、就職ガチャに才能ガチャ…。自分の思い通りにならなかった現実を怒りや憎しみを込めてカプセルトイになぞらえたものですが、結局これは縁の現代語版のようなものです。
思わず文句が出てしまうのは人間だから仕方がないことなのかもしれません。ただ、真に学ぶべきは「思い通りにならない中に私は生きている」という縁への目覚めではないでしょうか。
人は自分の人生が好転している時はなかなか縁の存在に気づくことができません。だからこそ逆境に立たされた時、災難に見舞われた時こそ、縁に目覚める絶好の機会なのです。
病気になるも縁。死を迎えるのもこれまた縁。翻って、今生きているということもまた縁なのです。
私は仕事柄、予定が狂うことなんて日常茶飯事です。毎日「もう!」と言っています。ただ、それと同時に「縁の中に生きているということを、また仏さまから教えていただいた」と瞬間的に心に思うようにもなれました。
「思い通りにしたい」という自分の身勝手さを、何度も何度も縁が気づかせてくれるのです。
男女の縁に限らず、出遇いすべてにおいて‟縁は異なもの味なもの”なのです。