光があるから見える

先々月は「欲」、前月は「怒」、と人間の悩みのもととなるタネのお話をしてきましたが、今月はその欲と怒を生み出しているものの正体、「愚」について書いてまいります。

愚というのは、読んで字のごとく「おろか」なことですが、この「おろか」というのは世間一般でいうところの「頭が悪い(覚えが悪い・計算が遅い)」という意味ではありません。ここでいう「おろか」とは「真実が見えていない状態」をいいます。

モノを見る時、人は“目でモノを見ている”と言います。これは半分正解で半分誤りです。確かに目がなければモノは見えません。ですがもう一つ大事な要素があるのです。それは光。どんなに視力が良かろうと真っ暗な部屋の中では何も見えません。光があって、その光に照らされたモノが目に映り、そこではじめて私たちは「モノが見えた」となるわけです。

先の「真実が見えていない状態」というのは、まさしく暗闇の中にいるようなもの。光が一切差さないから見ることができない。それゆえに愚はまた「無明」とも訳されるのです。

ここで一つ詩を紹介します。小学生の女の子の作品です。

  私のおかあちゃん、いろんな足音立てるんです。

  朝は トントントントン
  これはきっと朝の仕事が忙しいからだと思います。

  ドッドッドッドッ
  これはきげんの悪いときです。気をつけないといけません。

  ドンドンドンドン
  これは私か弟がおこられるときです。

  スースースースー
  上品な音です。お客さまがいらっしゃいました。

  トットットットッ
  きげんのいいときです。

  いちばんきげんのいいときはスキップです。
  口笛吹けば最高です。

女の子はお母さんの足音が状況や気分によって違うことに気が付いたんですね。とても面白い着眼点です。

ここで大事なポイントは、お母さん本人は自分の足音が違うことに気が付いているのか、という点にあります。

私たちは普段、基本的には他人ばかりを見て生活しています。なので、言葉は悪いですが他人のアラ探しは得意なんです。ほんの些細なことでも心の琴線に引っかかる。時に影口を叩き、時に攻撃し、時に第三者に愚痴を漏らす…なんとこと、皆さんも経験あるでしょう。

その一方で自分自身(外見ではなく内面の話です)に対してはあまり関心を向けることがありません。だから自分のアラには気づかない。自分の外にばかり心が向いてしまって、自分の内を顧みることがない。自分の心に光が当たらないのでいつまでも暗いまま。私たちの存在が無明と呼ばれる所以はここにあります。

自分の顔を見るためには鏡が必要です。同じように自分の心を見るにもやはり鏡を必要とします。心の鏡とはすなわち「仏さまの教え」にほかなりません。「仏さまの教え」を聞けば聞くほど自分の醜い心のアラがありありと映し出されてくるのです。

(たまにテレビの番組で芸能人やタレントがお寺へ参詣し、住職の話を聞いて、「心が洗われた」「清らかな気分になった」などとコメントされる方がおりますが、私はいつもウソっぽいな~、と思ってしまいます。「自分の心が汚れていることに気づかされました」「もっともっと仏さまの話を聞きたいと思いました」という言葉を聞いたことがありません。“テレビ的なコメント”ではなく、真摯に心に向き合った“恥を忍ぶコメント”を発する方がおられましたら、私はきっとその人の大ファンになることでしょう)

無明がゆえに他人ばかりを見ている人は、自分と他人を比べ合い、欲と怒を増幅させていきます。心に鏡を置いて自分を客観的に見て、言動を注意深く観察できるようになれば欲と怒をコントロールすることができます。

12月は大掃除の季節です。心の鏡も曇りなく磨いておきましょう。