業という考え方

「業(ごう)」とは「行為」のことです。

この業というものをお釈迦さまは「身業」「口業」「意業」の3種に分けて説明しています。

 身業…身体の業。主に手や足を使ってなす行為のこと。

 口業…口の業。これは言葉を発する(=喋る)こと。

 意業…心の業。嬉しい、悲しい、腹が立つなどなど、様々な感情が自分の心に生じること。

さらに付け加えると、身業と口業は他人(=自分以外の人)が目や耳を通じて知覚することができますが、「意業」は当人にしか分かりません。ですので身業と口業は「(自分の)外側に現れ出たもの」、意業は「(自分の)内側に潜んでいるもの」ということになります。

業を語る上で、大事なポイントが2つあります。

 ①まず「意業」が先に生じ、それに従って「身業」および「口業」が生じる。

 ②すべての業は消えることなく残り続ける。

①に関して。

あなたは過去に腹が立った時、つい大声を上げたり、とげとげしい言葉になったり、物に八つ当たりしたりしてしまった経験はないでしょうか? 

仏教ではこれを自分の内側で「怒り(意業)」が最初に生じ、それが引き金となって「荒々しい声(口業)」や「ぞんざいな扱い(身業)」が外に現れ出たのだ、と見ます。

さらに、前述したように口業と身業は他人に知覚されるものですから、必ず何らかの影響が相手に与えられます。先の例で言うと、腹を立てた私の言葉や行動が相手を精神的・肉体的に傷つける「影響」となるのです。

また、②に書いたように、業というのは消えません。どれだけ謝罪をしようと、心を入れかえ真人間になろうと、過去の悪業が「なかったことにはならない」のです。時々、ニュースで著名人の失態や失言が取り上げられて話題になることがありますが、これも業が消えないからこそ起こるのです。

逆に「かつて助けてもらった恩をいつまでも忘れない」というのも理屈は同じです。

要するに悪業であれ、善業であれ、表向きは消えたように見えても、その影響はくすぶり続ける炭のようにいつまでも残り続けるのです。

悪い心からは悪い手と悪い言葉が生まれ、善い心からは良い手と良い言葉が生まれます。これは真理です。

しかし私たち人間は自己中心に生きる生き物ですから、悪い心を完全に取り除くことはできません。

「悪い心を起こさないこと」、確かにそれは仏教の究極的な目標です。ただ「現実的にこの私が実践可能か」と問われれば、残念ながら不可能と言わねばなりません。

それなら私たちでも実践できる生き方とは何でしょうか。

それは「少し立ち止まること」です。

悪い心が起きても、すぐさま外に出さない。手や言葉に出す前に一旦心の中でブレーキをかけてみる。たったこれだけで「取り返しのつかない事態」の発生率は大きく下げることができます。

今の日本はブレーキが壊れている方がずいぶんと多くなったように思います。

腹がたったらすぐ手が出る、口が出る。意業と身業・口業が直通になっているのです。

ちょっとのイライラでもすぐにネットに書き込んでしまう脳内思考はまさにその象徴と言えるのではないでしょうか。

車は2年に一度、車検があります。どこかに異常があると安心して運転することもできませんし、大事故に繋がりかねないからです。

心も時々、検査をしましょうよ。

心の検査は仏法聴聞です。

あなたのブレーキ、壊れていませんか?