散る桜 残る桜も 散る桜

4月を代表する花と言えば桜。今も昔も変わらず日本人は桜好きです。毎年、この時期になるとテレビではサクラの開花情報が流れ、桜を心待ちにしている方のインタビューや、お花見を楽しんでいる様子などが映し出されます。

ただし、今と昔では好む桜の時期が違っていたようで、現代の人たちが「開花直前~満開」を楽しむのに対し、昔の人々は「散り始め~散りきった後」に花の美を見いだしていたようです。散りゆく桜の姿はまるで人の一生のようにはかない。すなわち人間の栄枯盛衰を桜に見たのです。今よりもずっと心にゆとりがあった時代からこそ、「ただの桜の花」としてではなく「教え」として考えを昇華させることができたのでしょう。

今ではすっかり退化してしまった日本人の感覚の一つです。

「諸行無常」―全てのものは絶えず移ろい、変化して、いつまでも同じ姿のまま留まり続けることはできない、とお釈迦さまは仰いました。これがちょうど桜の姿と重なって日本人に無常観というものが広く浸透していきます。

色は匂へど 散りぬるを我が世誰ぞ 常ならむ有為の奥山 今日越えて浅き夢見し 酔ひもせず (「いろは歌」)

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。 (『平家物語』)

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。 (『方丈記』)

親鸞聖人もまた次のような歌を詠んだとされています。

明日ありと 思ふこころの 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは              

ところが、今の私たちはどうでしょうか。無常観がどこか他人事、「私の周りは変化していくけど、私自身は変わらない」なんて風潮があるように思えてなりません。それは『イソップ寓話』に出てくる「アリとキリギリス」のキリギリスと同じです。手遅れになってから慌てたところでもう遅いのです。

季節の移ろいがこの私に諸行無常を教えています。

枯れゆく花がこの私に諸行無常を教えています。

身近な人の死がこの私に諸行無常を教えています。

みな、私のために届けられた仏さまのメッセージです。

それをしっかりと受け取れたとき、逆境を乗り越え、今を一所懸命に生きることができるのです。

最愛の我が子を亡くした平安時代の女流歌人、和泉式部の歌です。

夢の世に 仇にはかなき 身を知れと 教えて帰る 子は知識なり

「諸行無常の中に私も生きていたのだ、ということを我が子より教えられました。我が子は仏さまでした」

式部がこの領解に至るまでに相当な時間がかかったことでしょう。けれどもこの領解によって、子は悲しみの対象から仰ぎ見る対象へと式部の心が変わったのです。

桜の花からあなたは何を思うでしょうか?