迷うは「真酔う」
― 江戸時代、江戸の人たちは虫歯を患うと、果物の梨に自分の名前と痛む歯の場所を書いて、とある方角へ向かって祈りを捧げ、梨を川へ放ったのだとか。その「とある方角」というのは信濃國(現在の長野県)の戸隠神社。なんでも戸隠神社奥社の九頭龍社にて虫歯の者が梨を奉納して、三年もの間“梨断ち”をしたところ、虫歯が治ったという伝説があるそうで、それにあやかって「虫歯になったら梨を流す」という信仰が生まれたのだそう。
尤も、これは落語の話で、実際にこんなことが行われていたかどうか分かりません(笑)。
「梨で虫歯が治る」なんて話をこの現代において真に受ける方はおそらくいないでしょう。なぜなら、梨と虫歯の間には何の因果関係もなく、科学的根拠もないからです。根拠なきものを信じることを迷信といいます。
科学的知見がまだ乏しかった江戸時代ならば、迷信に走ることもある意味でやむを得なかったことでしょう。
それならば、当時に比べて著しく科学が進歩した今の時代は、迷信に惑わされる者などほとんどいない、というのが物の道理のように思うのですが、実は案外そうでもないのです。
新型コロナウイルスという未知の病気が世に出始めたころ、「感染対策には花崗岩が有効」という情報が一時話題となりました。フリマアプリに出品する者が現れたり(当然、それを買う者もいました)、石探しに川へ出かける者がいたりと、ちょっとした花崗岩ブームが起きたのです。もちろん花崗岩にそんな効果はないのですが、ウイルスへの不安と玉石混交の情報に巻き込まれて、理性的に考えられず、つい盲目的になってしまった人がいたのでした。
「迷う」の語源は「真酔う」。すなわち「真に(=完全に)酔っ払った状態」のことをいいます。これはもう酩酊ではなく泥酔。本人は自分が酔っているかどうかも分からない状態のことです。いくら周りが「あなたは酔っているよ」と指摘しても、当の本人はうまく脳が働いていませんから正常な判断ができません。そんな「真酔う」が転じて「迷う」という言葉が生まれたのです。
どうして時に人は迷うのでしょう。それは「正しいもの(事実・人・場所)」を知らないからです。「正しいもの」を知っていれば迷うことはありません。例えば見知らぬ土地を訪ねた時、なによりもまず頼りになるのは地図でしょう。それは地図が「正しいもの」だからです。地図がなければいつまでも彷徨い歩くことになります。人生もこれと全く同じ。「正しいもの」を知らぬ者はあっちへフラフラ、こっちへフラフラとあてもなく、ただいたずらに時間と財産を失い続けるのです。
占い、お守り、厄払い、パワーストーンに語呂合わせ…。日本人の多くが日常的に好むものの数々ですが、結局それは「梨で虫歯が治る」ことと大差ありません。上手い謳い文句に惑わされ購入する者と、それをいいことにもっともらしい理屈を付けて金銭を巻き上げる宗教関係者が持ちつ持たれつで同居しているのが現代の日本の姿です。これは本当に悲しいことです。
「正しいもの」が分かると、自分が「真に酔っていた」ことに初めて気がつきます。
これから先、無益な人生を送らないためにも、どうか一日も早くあなたが「正しいもの」に出遇えますように。