「餌」と「食料」
先日、国会の場でとある政治家が備蓄米を「家畜の餌」と発言したことで国民の反感を買い、謝罪するというニュースがありました。新しかろうが古かろうが、お米はお米。日本人にとって主食であるお米を餌と表現したこと、さらにはこれから食べようとしているものを家畜の餌と同等に扱われたことに国民が怒りの声を上げたわけです。
ではお米を例に、家畜が食べるものを「餌」、人間が食べるものを「食糧」とここでは定義した時、この“私”が食べているのは餌なのか食料なのか、ひとつ仏教的に考えてみましょう。
家畜を含め、動物一切を仏教では〈畜生〉と呼びます。『涅槃経』というお経には畜生と人間を分けているのは「慚愧(ざんぎ)の有無」であると説かれます。ちょっと引用してみましょう。
「慚」は自ら罪を作らず、「愧」は他を教えて作さしめず。
「慚」は内に自ら羞恥す、「愧」は発露して人に向かふ。
「慚」は人に羞(は)ず、「愧」は天に羞ず。
これを慚愧と名づく。
無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。
慚愧あるが故に、すなはちよく父母・師長を恭敬す。
慚愧あるが故に、父母・兄弟・姉妹あることを説く。
つまり慚愧とは恥じる心、「申し訳ない」と思う心のことです。
動物は食事の時、食べ物に対してこれが罪深いことだとは微塵も感じません。そもそもに恥じることがないのです。だから当然「申し訳ない」と思うことはないのです。お腹が空いたから食べる、ただそれだけです。
一方、人間は違います。目の前の“いのち”に対して「申し訳ない」という心を持つことができる。殊に日本の先人たちはその申し訳ないという思いを「いただきます」の言葉と共に合掌という所作で表してきました。「申し訳ない」と謝ると同時に「有難う」の感謝をそこに込めたわけです。
ただし悲しいかな、全ての人間が「申し訳ない」と思う心を持っているわけではないのです。人間に生まれたにも関わらず、慚愧を持つ人と持たざる人が存在するのです(上に「申し訳ない」という心を持つことができる、と表現したのはそのような理由からです)。慚愧なき人間はたとえ外見上は人間であっても、仏さまから見れば畜生です。畏敬と感謝のない食事はそれがどれだけ高価だろうと本人が畜生となるがゆえに餌となります。逆に犠牲となったいのちに感謝し、携わった人々に感謝し、不自由なく「噛む・飲む・消化する」ことができる自分自身の身体に感謝できる人は、食事の内容がどれだけ質素だろうと不平不満が出ることはありません。それこそ本当の「食糧(=糧を食べる)」なのです。
「餌」と「食糧」とを分けるのは生物学的な種の違いではなく、食する者の心にあります。
今一度、普段のあなたの食事風景を思い返してみてください。
あなたが食べているのは「餌」でしょうか。それとも「食糧」でしょうか。