さるべき業縁もよほさば…

日本人の多くは教会(チャペル)にある種の憧れがあるようです。だから挙式は「教会式(いわゆる神父さんが式を取り仕切るもの)」という方が圧倒的に多い。式の終盤、神父さんが問います。「健やかなるときも病めるときもあなたがたは永遠の愛を誓いますか?」。それを受けて新郎新婦が答えます。「誓います」。こうして神サマの御前にて契りが結ばれ、この時をもって両人は晴れて夫婦となるわけです。

ところが世の中には、その後、離縁になる夫婦がいらっしゃる。永遠の愛を誓ったはずなのに、考え方が違っただの、愛を感じられなくなっただの、もっともらしい理由をつけて、仲違いになってしまう。お二人の結婚生活がどのようなものであったのかは知る由もないですが、そういう話を耳にするたび、私は人間が語る「永遠」という言葉の薄っぺらさをつい感じてしまいます。

―その昔、親鸞聖人ご在世のころ、聖人の弟子に唯円という方がおられました。

ある時、聖人が唯円さんに尋ねます。「唯円よ、お前は私の言葉をすべて信じるか?」。

すると唯円さん、「もちろんでございます。師の言われることに背く弟子がどこにおりましょうか」。

重ねて聖人が尋ねます。「その言葉に嘘偽りはないか」。

「誓って私の言葉に嘘偽りはございません」。

「ならば…」と、ここで聖人は思いがけない言葉を唯円さんに投げかけます。

「ならばこれから人を1000人、殺してきてくれ」。

唯円さんは慌てます。「そんな滅相もない。1000人どころか1人も殺すことはできませぬ」。

その言葉を聞いて聖人が言います。「それでは先程お前が言った言葉を違えることにならないか?」。

「そ、それは…」

答えに窮する唯円さんに聖人は次のように語りました。

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」というのは、「しかるべき条件が整ってしまうと、人は何をするか分からないものだよ」という意味です。つまり聖人のこの言葉は「人間の言動には‟絶対”なんてものはない」ということを表しています。

ここから考えますと、気の合った二人が一緒になるのも‟さるべき業縁”。離れていくのもまた‟さるべき業縁”ということになりましょう。身の回りの条件や環境で人の心はいかようにも移り変わるものです。昨日の私と今日の私も仏教的に考えれば別人ということになります。自分自身ですら別人になるのですから、自分と相手の関係が変わることなんて何ら不思議ではありません。

最近はあまり見かけなくなりましたが、ある人が何かで罪を犯しますと一部のテレビでは、その人の中学・高校時代の同級生に取材して「当時の様子はどうだったか」なんてことをインタビューすることがありました。これは全く愚かしいことです。その人は、たまたまその瞬間‟さるべき業縁”が整ってしまったがために犯罪に手を染めたのであって、過去の人となりはあまり関係ないのです。

人格者と呼ばれる人も、これから先、後ろ指を指されれるかもしません。

逆に過去に罪を犯した人も、更生して周囲を笑顔にするかもしれません。

かく言う私自身がそうなのです。人生は「たまたまの連続」に過ぎません。