指月の譬え ~賢いオウムの話~

インドの僧侶、龍樹(西暦150-250年頃)の言葉に「指月の譬え」というものがあります。

  人の指を以って月を指し、以って惑者に示すに、惑者は指を視て、月を視ず。人、これに語りて、

  『 われは指を以って月を指し、汝をしてこれを知らしめんとするに、汝は何んが指を看て、月を視ざる』、

  と言うが如く(『大智度論』)

これは月を知る者(=覚者)が、月を知らない人(=惑者)に向かって「月はあれだよ」と指さしても、惑者は指のほうを見るばかりで肝心の月を見ようとしない、という意味で、「‟言葉”に注目するのではなく、その言葉が指し示す‟こころ”に注目しなければ真理には到達できない」ということを表しています。真理に到達するためには言葉が不可欠ですが、言葉はあくまでも方便(手段)であって、真理そのものではありません。

つまり、「(仏典を読むときは)ただ言葉を読んで終わりではなく、さらにもう一歩考えを深めて、その先にあるものを見つけよ」と龍樹は言っているわけです。

そんなわけで今月は皆さんに「賢いオウム」のお話を致しましょう。

 むかしむかし、インドのとある国に美食家の王様がいました。とりわけ王様はオウムの肉が大好物でした。そのた  め王様は城内にオウム飼育するための大変大きな鳥かごを持っていました。

 鳥かごの中はいつもオウムがいっぱいです。王様がどれだけ食べてもすぐさま新しいオウムが補充されるからです。料理人は毎日オウムたちに餌を持ってきます。そして丸々と太ったオウムから連れ去られていきます。しかしオウムたちは誰も仲間が人間に連れ去られていくことに気づきません。目の前にある美味しい餌に夢中だからです。

 わざわざ餌を探しに行く必要もないし、丈夫な鳥かごに守られているから天敵に襲われることもない―。オウムたちにとって鳥かごの中はまさに楽園そのものだったのです。

 そんなオウムたちの中に1羽だけ‟あること”に気づいたオウムがいました。

「おかしいぞ、この前まで一緒にいた仲間の顔がどこにも見当たらない…」。

 注意深く観察してみると、餌の時間にオウムが1羽、また1羽と鳥かごから出されていきます。そしてもう二度とそのオウムが帰ってくることはありませんでした。

「そうか分かったぞ! 我々は人間に食べられているんだ」

この恐ろしい事実に気づいたオウムはすぐさま仲間のオウムたちにも伝えます。

「みんなこれ以上餌を食べちゃダメだ。その先にはひどい未来が待っているぞ」

しかし誰もそのオウムの言葉に耳を貸しません。みんな脇目も振らず餌をついばんでいます。

 その日以来、このオウムはどれだけお腹が空こうとも餌を口にしませんでした。周囲のオウムたちがどんどん太っていく中、このオウムだけは痩せていきました。

 そしてしばらく経ったある日のこと、やせ細った体がスルリと鳥かごを抜けたのです。

 晴れて自由の身となったオウムは、鳥かごの外から涙を流して仲間に向かって何度も「目を覚ませ」と呼び続けるのでした。

 いかがだったでしょうか。「その先にあるもの」がお分かりいただけたでしょうか。

 餌は「心を誘惑してくるもの」、料理人は「死」、気づいたオウムは「仏さま」です。

 いつまでも餌を食べ続けているオウムは一体「誰」なのでしょう?