鳥居とカメラ
都会では見ることも少ないかもしれませんが、私の住む田舎では山林の道路脇なんかに写真のような鳥居が立っていることがしばしばあります。鳥居の高さは20~30cmほど。近くに神社があるわけでもなく、ポツンと鳥居だけが立っているので、知らない人からすると少し奇妙に映るかもしれません。
実はこれ、「小鳥居(しょうとりい)」というもので、簡単に言うと「ここにゴミを捨てないでね」と不法投棄をしないよう注意を促すものです(ちなみに電柱や家屋にある小鳥居は「ここにオシッコをしないでね」の意味になります)。

ところ変わって、とある地方の話。
郊外にあるその町では道路沿いにゴミがたくさん投げ捨てられていました。車の運転手がペットボトルやらお菓子の包み紙やらを窓からポイポイと捨てていくからです。張り紙をしてもまるで効果なし。相手は走行中の車ですからきっと目にも留まらないのでしょう。そこで住人は一計を案じ、道路に全身が映るほどの大きな鏡を設置したそうです。すると効果テキメン。目に見えて不法投棄の数が減ったといいます。鏡に映った「悪い自分」を客観的に見せられたことで自ずと反省心が起こったのでしょう。これはなかなかいいアイデアです。
かつての日本人は自らの中に宗教心(=神仏に対する畏敬の念)を持っていました。だから鳥居が一つあるだけでも邪な思いや行動が抑制されていたのです。
時代が変わり、今や人々の行動を抑制しているのは鳥居ではなく防犯カメラになりました。確かにこれはこれで有用なものなのですが、鳥居とカメラでは明らかに異なる点が一つあるのです。
それは「悪の自覚」です。鳥居の存在はその人の内側にある「良心」に働きかけるものです。鳥居の向こう側にいるのは神仏(=私を超えた存在)ですからそこにはウソ・偽り・誤魔化しが一切通用しません。一方、カメラはその人を外側から「監視」するだけです。しかもその向こう側にいるのも同じ人間ですからいくらでもウソ・偽り・誤魔化しがまかり通ります。「カメラにさえ映らなければ…」「たとえ映っても後で改ざんすれば…」―。こういう時の人間の悪知恵というのはよくはたらくものです。カメラでは当人の「悪の自覚」を促すことができません。ですから究極的な意味では防犯カメラで犯罪そのものをなくすことは決してできないのです。
インドには倶生神(くしょうじん)という神様の話があります。
男と女の神様で、男の神様はその人が生まれてから死ぬまでの「善い行い」を全て記録し、女の神様は「悪い行い」を全て記録します。もちろん神様ですから人間の目には見えません。
そしてその人が死んだ時、2人の神様は閻魔さまに善悪両方の行いを包み隠さず報告し、閻魔さまはその「善悪の割合」で裁くのだとか。
だからインドの家庭では我が子に「生きているうちに善いことをたくさんしましょうね」と教えるのです。これも立派な宗教教育です。
親鸞聖人がお書きになられた正信偈の中には「大悲無倦常照我(大悲、倦(ものう)きことなく、常に我を照らしたもう)」という言葉が出てまいります。「阿弥陀さまはたとえこの私が仏さまのほうを向いていない時でも、いつでもどこでも見守っていてくださいますよ」とのお示しです。
仏さまですからバチを当てるようなことはしません。けれども私が悪いことをすると仏さまは悲しむのです。
阿弥陀さまをはじめ、私よりも先に仏さまとなっていかれた先達の方々を悲しませないよう、なるべく正しく生きていきたいものですね。
