老を敬う
敬老の日が国民の祝日となったのは今から60年前の1966年(昭和41年)のことです。「高齢者を敬い、長寿を祝い、そして老人福祉への関心を深める」ことを目的として制定されました。
高齢者がおられる家庭では敬老の日に合わせて何かプレゼントを差し上げたり、食事に行かれたりするところもあるでしょう。お店に行くと「おじいちゃん、おばあちゃん、いつまでも長生きしてね」という言葉とともに園児たちによる似顔絵が飾られるのもこの時期ならではです。
敬老の日の主役は高齢者。つまり若者から見たときの「私よりも目上の人」というわけです。世間的にはそれで間違いないのでしょうが、ここは“出”世間の場。少し違った角度でものを考えてみようではありませんか。
さて、皆さん。「老い」はいつから始まるかご存じですか。 40代? 50代? 60代? いえいえ違います。老いは「生まれた瞬間」からもうすでに始まっています。
生まれたばかりの赤ん坊が日に日に大きくなっていくのは老いているからです。逆に自分の親が日に日に小さくなっていくのもこれまた老いているからです。どちらも「老い」あることに変わりありません。変化していくことが老いだからです。それなのに人は前者を【成長】と呼び、後者ばかりを【老い】と呼びます。おかしな話ですね。【成長】と【老い】は同じです。できることが増えていく時期が成長(老い)ならば、できることが減っていく時期もまた成長(老い)なのです。なので、もし「老い」と言われてショックを受けるのであれば、ぜひ頭の中で「成長」と言葉を変換してみてください。そうすればきっと気持ちも上向いてくるはずです。
世間というのは比較の世界ですから、老人とは自分よりも年上の人ということになります。しかし“出”世間である仏教ではそうは考えず、私自身が老人(老いの最中にいる私)、という考え方をとります。私が私の老いを敬う日、それが仏教的「敬老の日」です。
では、私が私の老いを敬う、とはどういうことでしょうか。
それは「変化を認められる私になる」ということです。
私たちは自分にとって良い変化は手放しで受けいれるものですが、悪い変化はなかなか受け入れようとしません。特に加齢による体型の変化と身体能力の低下というのは、ある程度年を重ねた方であれば実感するところも多いのでは内でしょうか。
しばしば愚痴となって口から出てくる「顔が老けた」「体力が落ちた」「物忘れが増えた」の言葉の数々―。気持ちだけはいつまでも過去にしがみついたまま現在の自分と過去の自分を比べるからそうなるわけです。
でも、ちょっと考えてみてください。若い頃のあなたは「顔が老けた」「体力が落ちた」「物忘れが増えた」なんて、言うどころか思いもしなかったはずです。その事実に今、気づけている。それは大きな成長ではありませんか。
その昔、ある人がお釈迦さまにこんな質問をしたといいます。
「仏法を信じる者と信じない者の違いは何でしょうか。仏法を信じる者ですら病気になったり、突然家族を失ったりするではありませんか。逆に信じない者の中にも健康で長生きし、家族共々幸せな家庭があるではありませんか」と。
それに対し、お釈迦さまは次のように答えました。
「仏法を信じる者は第二の矢を受けないものだよ」
仏法を信じる・信じないに関わらず生まれてきた以上は誰であっても生老病死からは逃れられません。これをお釈迦さまは第一の矢とし、全員がこの矢には射貫かれるものだと説きました。第二の矢とは「そのあと」を指します。仏法を信じる者は苦悩の中にあっても打ち砕かれることなく、前を向いて立ち上がり、苦悩や逆境を糧として新たな一歩を踏み出します。一方、仏法を信じない者は他人を妬み、世を怨みます。苦悩や逆境が人生の糧とならないため、これを第二の矢を受けた(余計に心に傷を作る者)と表現したのです。
自分の老いを憎む人は第二の矢を受けています。その傷口はどんどん化膿し、その人の心をますます腐らせます。
年を取らねば見えてこなかった世界が必ずあるはずです。不自由もたくさんありましょうが、喜びだって多少はあったはずです。
今年の敬老の日は9月21日。
鏡に顔をうつして、二コッと笑ってみてください。
それが、まぎれもない「今のあなた」です。
