仏さまの目

仏教は「仏さまの教え」であるとともに「私が仏さまとなっていく教え」です。お釈迦さまが説かれた教えに従い、実践すればお釈迦さまと同じ悟りを開くことができます。例えるなら料理と同じです。レシピに従って食材を用意し、手順通りに行えば、大人が作ろうと子どもが作ろうと、日本人が作ろうとフランス人が作ろうと、100年前の人が作ろうと100年後の人が作ろうと、同じ料理ができあがります(ただし人によって器用・不器用がありますから調理時間は同じではありませんけどね)。つまりレシピが「お経(お釈迦さまの教え)」、調理過程が「実践行(普段の生活)」、そして完成した料理が「仏(迷いを脱した者)」というわけです。

したがって私と仏さまは「全く別のもの」ではなく、教えの延長線上でつながっているのです。仏さまのお姿は未来の私の姿。言うなれば「お手本」ということです。眼前に仰ぐ仏さまは手本となって今、この私の前にお立ちになってくださっています。ということは私たちは少しでも仏さまになる近づくため、身と心を律して、見習わなければなりません。

さて、あなたは仏さまのお顔をまじまじとご覧になったことがあるでしょうか?

仏さまの「目」に注目してみてください。仏さまの目は眼球の上半分がまぶたの裏に隠れ、下半分だけが顕わになった“半開き”の形で表現されています。

「半眼(はんがん)」と呼ばれるこの形は「下半分の目で外の世界を見て、上半分の目で我が身の心を見つめている」ことを表します。仏さまは自分の体の外で起きている出来事を静かに観察し、それを我が身に引き寄せてじっくりと思索されておられる方なのです。

それに対し、私たち人間の目はどうでしょう。いつも“ぱっちり”開いています。外の世界ばかりを見て我が身を反省しない。ここに私たちが凡夫と呼ばれる所以があります。

飲酒運転だったりアクセルとブレーキの踏み間違いだったり、どうして同じ類の事故が何度も繰り返されてしまうのか。仏教的視点から言えば答えは一つです。それはニュースで流れてくる報道を「私には関係のないこと」として真剣に聞いていないからです。「けしからんなぁ」「痛ましいなぁ」とは思っても、自分が当事者になるとは考えない。これこそ外の世界ばかりを見ている証拠。加害者・被害者ばかりに注目して、肝心の私がすっぽりと抜けてしまっているのです。今まで事故を起こしていないからといって、将来も起こさないなんて保証はどこにもありません。一寸先は闇なのですから誰だって加害者・被害者になる可能性があるのです。

半眼でものを見る人は、そこに自分を投影します。すると日常の中で身と心にブレーキがかかり、無茶なことはしなくなります。みんなが半眼に生きれば、交通事故だって犯罪だってぐっと減るというのに悲しい限りです。

とはいえ、仏さまと違って、日常生活をずっと半眼で過ごすというのは無理な話。

だから人間である私たちは半眼ではなくしっかり目を閉じましょう。

より正確に言うと「一日の中で目を閉じる時間を持つ」ということです。それすなわち「仏さまの前に座る時間を確保する」ということです。

仏さまの前に座って今日の出来事を振り返り、内省してみましょう。その中で「気を付けよう」が見つかったら、それを明日から実践するのです。たとえ1分でも、するとしないとでは大きな違いが現れます。

精神的半眼―。まずは今日だけやってみませんか?