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住所 | 鹿児島県日置市伊集院町飯牟礼3197 |
駐車場 | なし |
アクセス | |
面白さ | |
虫の多さ | |
訪問日 | 令和6年1月29日 |
アクセス
県道37号線、バス停「飯牟礼入口」付近の交差点から800m南下。
脇道へと逸れ、50mほど進むと左手の土手に洞窟の入口がある。
洞窟までの道のり
道沿いに入口があるため、「洞窟までの道のり」は0m。
土手の斜面は少し急で上りにくい。入口は地上から見て2mほどの高さ。
下からだと小さく見えた入口も、近づくと幅1.4m、高さ0.9mとそれなりの大きさ。
手前には大量のシラスが堆積している。
構造と内部の様子
▲洞窟内を上から見た図(番号は撮影位置、矢印はカメラの向き)
・シラスを掘って作った横穴式の洞窟。一般的な念仏洞と比べて入口と内部の高低差が大きい。
・洞窟内の高さは1.3m。左手に小部屋、右手に緊急時の逃げ道(現在は埋没)が設けられている。
・入口正面の壁に大きな窪み。
①
入ってすぐに急勾配の下り坂。
危険防止のためか、大量のシラスが流し込まれ、雪崩になっている状態。
半ば滑り降りるような形で洞窟内部へ。
②
内部から見た入口部分。
高低差は1.5mほどで、かなり深く掘っている。
ここまで深いのは「都迫の念仏かくれ窟」に次いで2番目である。
③
入口の突き当たりの壁に幅0.5m、高さ0.9m、奥行き0.2mの舟形の窪み。
大きさ・形状からして祭壇跡のようにも見えるが、入口の真正面という位置から考えると蝋燭台跡と見るほうが適当か。
④
左手の小部屋。
幅1.6m、奥行きは3.6mとまあまあ広い。
現在はコウモリ部屋と化している。
⑤
小部屋の最奥部左手に窪みを発見する。幅0.8m、高さ1.2m、奥行き0.5m。
④の場所からは死角となる位置に作られている。
ということは、こちらが祭壇跡で間違いないだろう。
⑥
振り返って、反対側の通路のほうへ。
⑦
こちらの通路は幅0.8mと狭め。
右側に大きく湾曲している。
⑧
通路最奥部。
かつては外とつながっていたのだろうが、現在は埋まってしまっている。
最初の入口ほどではないが、こちらもなだらかな坂道状になっている。
洞窟周辺の様子
左の写真を見て分かるように、現在は南北に走る道路を境界として東に集落、西に田畑が広がっている。念仏洞は道路のすぐそば、集落から畑へ下る小道の途中にある。近隣の民家との距離は極めて近く、100mもない。
小道の脇の土手の斜面ということで、その入口は(少なくとも現在においては)発見が容易である。
調査を終えて
脱出経路を備えている念仏洞では、入口から出口(脱出用)への経路が一方方向に造られるのが定石である。なぜなら、たとえ法談中に取り締まりが入っても、入口を経由せずに出口へと逃げられるからだ。
ところが「飯牟礼の念仏洞」の場合、左側に法談用の小部屋、右側に脱出用の経路という、丁字路の構造となっている。つまり小部屋から出口へ向かうためには一旦入口側へ引き返さないといけない。すでに取り締まりが洞窟内に入ってしまった後ならば、全員の逃亡は困難なのである。
しかし、だからこその「入口の高低差」なのではないか。役人が洞窟入ってしまえば一巻の終わりだが、入りさえしなければ安全なのだから。
入口をなるべく高く設け、直角に小部屋を造ることで光の漏れを最小限にしたのだろう。
となると、右側は緊急脱出用でもあったろうが、平時でも普通の出口として使われていたのかもしれない。
なお、これと類似する構造のものは吹上町の「川中のかくれ念仏」にある(但し、こちらの場合は脱出用ではなく空気穴であるが)。
日置市立中央図書館にて「飯牟礼のかくれ念仏」に関する情報があった。少し長いが引用しておく。
飯牟礼二七二九番地にお住いの「腰フミヱ」さんは当時の「かくれ念仏」の仏像を今日まで家宝として大事に守りつづけておられます。そしてこの仏像にまつわる哀史は腰家代々、今も尚語りつがれています。
腰家の略系図を示します。
三五郎 (兄)(妻子なし)
貞右衛門(弟)→兼次郎→貞雄→輝雄-フミヱ(フミヱ氏は輝雄の妻 ※筆者註)
腰三五郎さんは飯牟礼下の字野首の山林(二三二二番地・腰家所有)に小屋を建て(山奥で見張りのきく場所)かくれてこの仏像を守り念仏を唱えていました。その頃、たまたま飯牟礼にも検者がやって来ました。当時、信者の人々は「念仏講の組織をつくり、検者が村にはいったことを知ったらできるだけ早くホラ貝を吹いて検者が村に入ったことを知らせる」という講仲間の掟がきめられていたのです。このホラ貝の合図を山の上で聞いた三 五郎さんは、足も不自由な人であったので、「自分はもう逃げのびることは出来ない」とあきらめて自分で自分の命を絶ったのです。(とらえられたら、おそらく斬刑だと思われたのでしょう。)この死ぬまで拝んでいた仏像が今日まで腰家の仏壇に残って腰フミエさんが大事に保管しています。そして本願寺の一一〇周年記念誌に「腰兼次郎所有」として写真が掲載されています。飯牟礼の「かくれ念仏」 を実証する貴重な仏像であります。
(『伊集院町飯牟礼校区郷土誌』 飯牟礼校区公民館著 1991年)
文中にある腰フミヱ氏の住所は念仏洞の正面向かいである(距離にして5mもない)。
家屋は既になく、現在は竹藪となっている。仏像の所在も不明だが、まだどこかに保管されていることを願いたい。
かつて飯牟礼地区にはかくれ念仏が存在していた―。その物的事実が念仏洞であり仏像である。土手脇にポツンとあるだけの「飯牟礼の念仏洞」だが、その歴史的価値は大きい。