川中のかくれ念仏洞(かわなかのかくれねんぶつどう)

DATE
住所鹿児島県日置市吹上町永吉5383
駐車場なし
アクセス
面白さ
訪問日令和7年2月27日

アクセス

県道35号線を日置市消防本部南分遣所から850m北東方向へ。

交差点を南に曲がり、40mほど行くと「防火水そう」の標識が見えてくるので、その対岸の土手へと入る。

洞窟までの道のり

かつては家か畑があったのか、土手の上は平坦。

無秩序に生い茂る笹をかき分けながら、右側の藪の中へと入っていく。

藪を抜けると、すぐ洞窟の入口。

道路から31秒、土手の斜面に掘られた念仏洞である。

入口は卵型

幅0.95m、高さ1m。

構造と内部の様子

          ▲洞窟内を上から見た図(番号は撮影位置、矢印はカメラの向き)

・シラスを掘って作った水平方向の洞窟。

・天井の高さが場所によって異なる(上の図で言うと左側1.3m、中央部2.7m、右側1.7m)。広さは大人20名が座れるほど。

中央部のみ地面が深く掘られている。


内部から見た外の様子。

多くの念仏洞に見られるような「入口部が高い」構造。

傾斜はそれほどでもない。

洞窟左側。

奥の壁が外と繋がっているため、空気の通りがよく、洞窟全体がカラッとしている。

左側部分は幅1.9m、奥行き2.4m。

左側最奥部。

穴の大きさは幅0.4m、高さ0.24mと小さく、人の出入りは不可。これはおそらく空気穴だろう。

外から見るとこんな感じ。

入口から見てやや右寄りの突き当りにある祭壇跡。
幅0.9m、高さ0.65m、奥行き0.5m。
 
地面に近い位置に作られているのは、しゃがんだ時の目の高さに合わせるためか。

洞窟右側。

先ほどの左側と比べると、縦に長い形をしている。幅1.7m、奥行き2.5m。

この日はコウモリ1匹と、暖を取るため寄り固まったゲジゲジが天井にくっついていた。

幅1.7m、奥行き3.5m、深さ0.4mの窪み。

「地面を掘る」というのは他に例がなく、この洞窟だけの特徴である。

洞窟周辺の様子

ここ一帯は永吉川沿いに水田が広がる地域である。そのため人家も多く、密集して集落が形成されている。

念仏洞は永吉地区の中心部からやや外れに位置していることから、「監視の目を逃れつつも、比較的通いやすい場所」として機能していたものと思われる。

調査を終えて

この場所は光専寺(吹上町永吉)の住職より教えて頂いた。住職の話によると、ここは大魯が法を説いていた洞窟だという。

大魯は大阪・堺市、慈光寺の住職で、本願寺第7代能化(「能化」は教学に対して宗派としての見解を決定する重要職)の智洞を支えていた人物である。智洞は優れた学僧であったが、「三業帰命論」を唱えたことで「三業惑乱」という論争(「三業惑乱」の詳細については複雑かつ難解なのでここでは省略する)にまで発展し、ついには幕府の裁定によって本願寺から追放、大魯も同じくして追放されたのだった(この時、大魯39歳)。

その後、大魯は熊本・天草を経て薩摩へ入国。講を結成し、30年にわたり念仏禁制の地で布教活動に尽力した。

ここで改めて洞窟の構造を考えてみたい。

入口を中心として左右に分かれている丁字路状の洞窟であるが、おそらく向かって右側に大魯、左側に念仏者たちが居並んだのであろう(空気穴が最後尾にあたる)。洞内中央部の地面が掘られた部分は、後方に座る者たちにも大魯の顔が見えるようにとの配慮と私は推測する。大魯のことをこの永吉地区では西山様(西山は大魯の本名)、あるいは岡様(岡は大魯が薩摩で名のっていた俗名「岡 大道」に由来)と呼んでいたという。皆に親しまれ、尊敬されていたからこそ、「全員に顔が見える洞窟」になったのではないか。

三業惑乱という大きな事件が起こらなければ大魯がこの地に来ることはなかったであろう。大魯にとって本願寺追放は痛恨の極みだったに違いないが、その縁があったからこそ薩摩の人々に信心の花が咲いたのである。

下を向かずに前を向き、新たな地で布教に人生を捧げた大魯の生き方は、越後に流罪となった聖人と重なるものがある。 そんな歴史の一片が「川中のかくれ念仏洞」なのである。