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住所 | 宮崎県都城市山田町山田2791-3 |
駐車場 | なし |
アクセス | |
面白さ | |
虫 | |
訪問日 | 令和7年5月1日 |

アクセス
バス停「山田中学校前」から県道42号線を600m南下。
県道45号線と交わる丁字路から30m東に行くと左手に標柱が立っている(但し経年劣化により文字はほとんど消えかかっており、遠目からは判別不可)のでそこから左に入る。
洞窟までの道のり

「かくれ念仏洞入口」と書かれた標柱(よくよく近づいてみれば解読できる)に従い、民家と民家の間の道(らしきもの)を直進する。
通れるには通れるが非常に狭い。

道の突き当りに側溝。
草に覆われた橋を渡って、竹林の中を「まっすぐ直進」(ここがポイント)する。

かつては道があったのだろうが、今は完全に自然の姿へと戻り、歩きにくいことこの上ない。
草をかき分けながら中に入っていく。
※距離はそれほどでもないので、迷子になることはない。

両脇が土手に挟まれた場所へ(ちなみに両岸の土手の幅は幅1.8m)。
この真正面に洞窟があるはずだが、「生きた竹」と「枯れた竹」が複雑に絡み合い、ここからは見えない。 竹の間をくぐったり乗り越えたりしながら先を目指す。

3mほど進んでやっと洞窟の入口が見えてくる。
ここら一帯のなだらかな土手を溝状に掘り、その突き当りに洞窟を構えたようである。
形状的には都城市山田町にある平山の念仏洞の元の姿に近い(平山の念仏洞の崩れる前の姿は都城市の公式ホームページから確認できるので参照されたし)。

標柱の場所から1分2秒で目的地に到着。
入口の手前まで土が接近しているのは元々入口だったが部分が崩落した跡なのだろう。
竹の重みで崩れ落ちたものと思われる。
構造と内部の様子

・詳細不明

現在の入口(のように見える場所)は幅2.1m。
写真の通り、中はすでに埋没してしまっている(奥行きは1.5m)。
見たところ、これは人為的に「埋めた」のではなく、長年の風雨と無秩序に伸びる竹によって「埋まってしまった」印象だ。

最奥部。
境目も不明瞭なため、もはやどれほど埋まったのかすら分からない。

洞窟の上部は広範囲に広がる竹林。
風によって竹同士がきしむ音を「洞窟内の音消し」に利用していたことは間違いない。
洞窟周辺の様子
竹林の中に作られた念仏洞である。
洞窟正面は平野となっており、広大な畑が広がる。
洞窟背面は竹林の斜面となっているが、現在その面積はそれほど広いものではない。
しかし当時は洞窟背面の高台にある畑の場所は森だったのだろう。
なお、平野ということで周辺に人家は多い。
調査を終えて
ここがまだ比較的綺麗だった頃の写真は都城市の公式ホームページ、または『都城市の文化財』(都城市教育委員会文化財課著 2014年)の中に見出すことができる。この写真がいつ頃に撮影されたものかは不明だが、洞窟の入口まではっきりと道が確認できることから、少なくともこの頃まではきちんと手入れがなされていたのだろう。
また写真には洞窟前の‟両脇が土手に挟まれた場所”に「史跡 かくれ念仏洞跡」と書かれた標柱が立っているのだが、今回の調査では発見できなかった(すでに倒れ朽ちてしまった可能性が高い)。標柱の文字が「かくれ念仏洞」ではなく「かくれ念仏洞跡」と書かれているので、写真が撮られた年代にはすでに埋まっていたようである。
道路沿いの「経年劣化した標柱」といい、洞窟前の「荒れ放題の通路」といい、ここ大古川の念仏洞は都城市からも近隣住民からも「忘れられてしまった洞窟」のようだ。
かたや町ぐるみ(もしくは有志者)で今もなお整備され大切に守られている洞窟があり、かたやこうして誰にも悟られず静かに消えていく洞窟がある。
エピソードだったり遺物だったり、何らかの伝承がある洞窟は残りやすいが、伝承が何一つない洞窟は「後世に伝えるもの」がないのでどうしても存続が難しい。
完全な竹林へと還るのはもはや時間の問題だ。
しかしこれもまた念仏洞の一つの姿なのである。