
アクセス
国道225線と県道275線が交わる丁字路から国道225線を1.5km南下。
沿道にある「天然橋」と書かれた標柱を目印に左の小道へと入る。
洞窟までの道のり

道なりにおよそ600m。
舗装された道が切れた先に道が一部広くなっている箇所が現れるので、そこから左の林に入る。

正面から見ると、きちんと道になっている。
すぐ目の前の小さな看板を目指してそのまま直進する。

林に入って5秒で到着。
そこにあるのは説明看板と石祠のみ。

看板が設置されたのは現在(2026年)から25年も前のことらしい。設置者が教育委員会等ではなく個人名になっていることから、ここは「公には知られていない洞窟」ということになる。
構造と内部の様子

・詳細不明

石祠の大きさは縦0.18m、横0.28m、高さ0.88m(屋根を含む)。
別段珍しいこともない、森の中でよく見る一般的な石祠である。

石祠によっては前後を2枚の石で挟んだ形のタイプ(その場合は中に彫り物が施されており、正面の窓から覗けるようになっている)もあるが、今回のものは1枚だけのシンプルなタイプ。

背面。
風化して消えてしまったのか、それとも初めから何もなかったのか、文字らしきものは一つも発見できず。

正面の窓部分。
見たところ、これに関しては初めから何も彫られていなかったようだ。

石祠の正面は自然のままに木々が無秩序に生えている。
なお、これより先は道もない。

石祠の地面は土。
これは一つポイントである。
周辺の様子
石祠があるのは虚空蔵岳(標高311m)の麓の森の中。
最寄りの集落とは1kmほどの距離がある。
ちなみに説明看板に書かれていた「天然橋」と「善積寺」だが、天然橋はこの虚空蔵岳の山頂付近(石祠から少し進んだ先に登山口がある)、善積寺は山の裏側にある(善積寺側からも山道があり天然橋に登ることができる)。
調査を終えて
改めて説明看板を読んでほしい。
まず「穴谷」についてだが、穴谷という地名は周辺にない。そもそもこれは地名なのか、それとも地形か何かなのか、すでに最初から分からない。
「がま」は念仏洞を意味する鹿児島の方言なので問題ないにしても、次の「白砂に埋まって居た」は引っかかる。もし言葉通りならば、念仏洞はこの場所ではないことになる。なぜなら石祠周辺の地面は白砂ではなく土だからである。

関係があるとされている「天然橋」と「善積寺」についても少し触れておく。
天然橋は長年の風雨によって浸食され、トンネルのように穴が開いた岩のことで(上に立つとまるで橋のように見えるので、“天然にできた橋”ということでこの名が付いている)、日本には8ヵ所しかないという大変珍しいものである。こと川辺町の天然橋においては岩の裏に虚空蔵菩薩の石仏があり、昔は疱瘡の神(?)として子を持つ親から信仰されていたという。




一方、善積寺は応永年間(1394~1428年)に創建され、薩州三ヶ寺に数えられていた由緒ある曹洞宗の寺院である。
肥後国出身の東峯正菊という和尚が「鬼穴」と呼ばれる洞窟に住まう毒蛇を退治したことから、当時の島津家当主・島津貞久が布教を許可し、建立したと伝えられている。
仏教文化の中心地としてこの地で長らく栄えていたが、明治元年(1868年)の廃仏毀釈によって建物はなくなり、現在は入口の仁王像や本堂跡の座禅石、歴代住職の墓などを残すのみとなっている。


では「がま」と「天然橋」と「善積寺」、この3つはどのように関係するのだろうか。
「この地の人々は善積寺の檀家だった」というのはほぼ間違いないだろう。理由は寺院に所属していなければ宗門手札(名前・年齢・宗旨が記載された木札で、真宗門徒ではないことを証明するもの)が発行されないからである。そのため“表向き”は禅宗の檀家としての体裁を取り、“内面”では真宗を信仰していたと考えられる。
それなら天然橋の岩屋部分がかくれ念仏の場所だったのかというと、これはどうやら違うらしい。
実際に天然橋に登った私の感想だが、確かに石仏がある場所は登山道からは全く見えないうえに、岩屋になっているため、かくれ念仏の場所としては申し分ない。しかし、ここは白砂ではなく岩窟である。よって一實氏の言う該当場所ではないということになる。
「天然橋のあるこの虚空蔵岳のどこかに念仏洞があった」というのが私の推測である。事実、善積寺跡の近くにも“謎の穴”が複数個確認された。一實氏がいない今、その真偽を確かめるすべを持たないが、「ここにも浄土真宗が息づいていた」という一實氏の伝承だけは、今を生きる我々は風化させてはならない。
