
アクセス
県道26号線から緑資源幹線林道に折れた後、4km進む。
「塩の道」と書かれた看板が左手に現れたら、そこから山へと入っていく。
洞窟までの道のり

道中は木にくくりつけられたピンクテープだけが頼り。
大体30m間隔でピンクテープがあるので、それに従って歩いていく。

行程の約5割は尾根道。
道幅には余裕があり滑落する危険性はないものの、アップダウンが多く、足の疲労は徐々に蓄積されていく。

江戸時代、須木村(すきそん)の人々はこの山を馬で越え、高岡町(直線距離にして約25km)まで塩を買いに行っていたという。つまり「塩の道」とは当時の馬道跡ということになる。
手ぶらですら息が上がるのに、重い荷を背負って険しい山道を歩いた馬たちはさぞ大変だったろう。

歩き始めて15分、開けた広場に到着。
一旦ここで休憩を取る。

広場の一角に説明看板があった。
ここは俵置き場(=馬の負荷を軽減するため米をここで小分けした場所)とのこと。
ということは行きは須木村から米を運び、帰りは高岡町から塩を運んだということか。

息を整えたところで山登り再開。
ピンクテープを目印にするも、肝心のテープが劣化して落ちている箇所もあり、少し迷う。
いつでも戻れるよう来た道を常に念頭に置きつつ、先に進む。

歩き始めて30分、七熊山山頂(標高929m)に到着。
しかし目当ての坊屋敷跡はこの次の三ッ石山方面にあるので、ここはあくまで中間地点。
なおここは山頂ながら360度木に囲まれており、眺望は全く望めない。

再び尾根道を歩く。
下り坂なので体力的には楽。

ピンクテープの通りに進んではいても、時折「本当にこの道で合っているのか?」という疑念が頭をよぎる。
ゆえにこういう人工物を見つけると心底ホッとする。

歩き始めて55分、2つめの広場に到着。
ここのどこかに坊屋敷跡の看板があるらしい。

広場から少し上がった高台に看板を発見。
この場所が坊屋敷跡とのこと。

看板を目指して山を歩くこと1時間。目的地に到着。
1年前に挑戦した時は途中で道が分からなくなり断念した経緯があることから、2度目となる今回、無事たどり着けて喜びもひとしおである。

看板周囲全景。そこには何十人も座ることができる平坦な広場が広がる。
役人の目を避けるため、山奥にある念仏洞や念仏地というのはいくつか存在するが、ここほど山奥なのはそれらと一線を画する。ここならどんなに大声で叫ぼうとそれが麓にまで聞こえることは万が一にもないはずだ。

看板から向かって右側。
本当に看板以外、何もない。

看板前方。
当然ながら何もない。
ところで「坊屋敷跡」という名称だが、これは文字通り「屋敷が建っていた」という意味なのだろうか。あまりにも場所が辺鄙すぎてどうも実感がわかない。
仮にもし何か建物があったとしても「屋敷」ではなく、せいぜい「庵」程度のものだったと個人的には思う。
周辺の様子
坊屋敷跡があるのは七熊山から三ッ石山へ向かう尾根沿いの標高900m付近である。
周囲は深い森林。登山者用にピンクテープが続いているが、分かりにくい箇所や剝がれてしまった箇所もあり、テープを見失った状態で200mも歩けば素人なら簡単に遭難してしまうような極めて危険な山となっている。
その標高ゆえに人家はもちろん近くになく、山を登らなければここまで来ることはできない。従ってここを利用したのは専ら行商隊の人々であったと思われる。
調査を終えて
塩の道に関しては『ふるさとのみち 宮崎の街道』(「ふるさとのみち 宮崎の街道」編集委員会 2006年)に詳しく載っているのでそちらに譲るが、肝心の坊屋敷跡については情報がほとんどないのが現状である。一応、『ふるさとのみち 宮崎の街道』と『須木村の文化財』(須木村教育委員会 1988年)の2冊に坊屋敷跡の名は登場しているものの、「柿の木が一本立っている」ということ以外、当たり障りのないことしか書かれておらず、具体的な伝承というのは歴史の過程でどうやら途絶えてしまったようである。
一つ興味深い話として、小林市の広報誌『広報こばやし 2015年3月号』に地域おこし協力隊の方の体験談として以下の記述がある。
「坊屋敷には昔、絶世の美女が住んでおり、その死を悼んだお坊さんが植えた柿木がある」との言い伝えがあり、実際に枯れているものの1本の柿木が残っていた。
この言い伝えの情報元がどこかは不明だが(もしかすると現地の人から直接聞いたのかもしれない)、これをそのまま受け取るならば、この場所には確かに屋敷があったということになる。ただ、「こんな場所に美女が(というより人間が)生活するかなぁ」というのが私の率直な感想である。
言い伝えの真偽はさておき、ここがかくれ念仏者たちの信仰場所になっていた可能性は大いにあると思う。先述したようにここなら声が麓に届くことはないし、役人がここまで登ってくることも稀だったはずだからである。おそらく時間帯も夜ではなく昼だったのではないか。行商人たちの仕事の合間のひとときに称名があったと私は信じたい。
60ヵ所以上のかくれ念仏関連遺跡を訪ねてきた身として、これまではさつま町にある「寺どん」が「最も険しく最も遠い洞窟」の第一位だった。しかし今やそれが霞んで見えるほど坊屋敷跡は群を抜いている。「遭難する危険性を犯してまで登っても、あるのは看板一つだけ」という坊屋敷跡。もう二度とこの地を踏むことはないだろう。
