| DATE | |
| 住所 | 鹿児島県曽於市大隅町月野1 |
| 駐車場 | なし |
| アクセス | |
| 面白さ | |
| 虫 | |
| 訪問日 | 令和7年4月29日 |

アクセス
県道63号線から市柴橋北側の脇道へ入り、次の二股で左に折れる。
その先に標柱が立っているので、そこから民家の敷地に入る。
洞窟までの道のり

敷地内に入ると正面に斜面に掘られた入口が5つ。
向かって右から順に確認していくと、3つ目まではどうやら防空壕の跡らしい。奥行きはほとんどなく、まっすぐに掘っただけの単純な構造をしていた(奥行きは右から2m、2.5m、3.1m)。

標柱の場所から44秒で目的地(一番左端の洞窟)に到着。
標柱の図解とも形状が一致していることから、ここで間違いなさそうだ。


斜面の高さは約5m。上部は雑木林。

標柱の説明文に「当時は横穴が一つだけ見えるようにカモフラージュされていた」と“過去形”で書いてあるように、現在は風化により土手の斜面が削れ落ち、2つの洞窟を結ぶ間道はなくなり、両洞窟が横並びに見える姿となっている。
とりあえず洞窟入口前方を測ってみたところ、その距離は1.8mだった。つまり、「前方部分が約2m消失した」ということになる。

崩落した斜面上部の様子。
今もなお、時折パラパラと砂が落ちてくることから、この先さらに崩落は進むことが予想される。

左右の洞窟を結んでいた間道の現在の姿。幅は1.3m。
地面に砂が堆積していることを考慮すると、間道の高さはだいたい1m程度だったか。
構造と内部の様子

▲洞窟内を上から見た図(番号は撮影位置、矢印はカメラの向き)
・シラスを掘って作られた水平方向の洞窟。
・右の洞窟(偽装洞窟)の高さは2m。左の洞窟(かくれ念仏洞)の高さは2.5m。
・左の洞窟最奥部には祭壇跡が残る。

①
まずは右側の洞窟から。
入口は幅1.9m、高さ2m。(現時点)
洞内は廃品で埋め尽くされており、足の踏み場もないような状態。

②
内部は全体的に四角い形状。
もしかするとここも戦時中に防空壕として2次利用(その際に空間が広げられた可能性)されたのかもしれない。

③
続いて左の洞窟へ。
入口は幅1.5m、高さ1.8。(ただし、当時は間道との接続部が入口になっていたはずなので、これは本来の入口ではない)
右の洞窟とは異なり、こちらの内部は全体的に丸い形状。

④
洞窟脇にある1つ目の小部屋。
幅1.5m、高さ1.8m、奥行き2.4m。
位置的には間道の延長線上にあることから、ここは外を警戒するための「見張り部屋」のようなな場所だったのかもしれない。

⑤
奥の様子。(天井部が一部白いのは剥落により下地のシラスが現れたもの)
広さは大人4~6人が座れる程度。

⑥
壁に掘られた窪み。灯明跡にしては小さい気もするが…。

⑦
1m離れて隣の小部屋。
間の壁にはしっかりとした灯明跡。

⑧
2つ目の小部屋。
幅1.8m、高さ2.1m、奥行き1.5m。
広さは大人3~4人が座れる程度。
こちらは声明を練習するための部屋、「修行洞窟」か。

⑨
内部から見た入口の様子。
間道に対して直角に掘られているので、昼間でも外の光はほとんど入らず、洞内は暗かったに違いない。

⑩
奥の様子。
右手には大量の植木鉢(平成時代のものと思われる)。
きっと、花を好んだ家主だったのだろう。

⑪
祭壇跡。
幅1.6m、高さ0.5m、奥行き0.4m。
ここに仏像が置かれていたはずなので、この洞窟においてはこちら側が「正面」ということになる。

⑫
最奥部。
壁および天井に特筆すべき点はなし。
顔は当然、祭壇側になるだろうから、体の向きも全員左向きだったということだ。
洞窟周辺の様子
洞窟の前方は現在、開けた空き地となっている。しかしそれでは対岸から洞窟の存在が丸見えなので、当時は住宅か、あるいは林が洞窟前方にはあったものと推測される。
近隣住宅との距離は極めて近く、周囲250m圏内に集落がすっぽり入る形となっている。洞窟の広さからしても、この場所が地域の信仰の中心地であったようである。
調査を終えて
「間道で結ばれた並列する洞窟」に類似する念仏洞は、ほかに「雀ヶ宮のかくれ念仏洞」(鹿児島市吉野町)と「田部田のかくれ念仏洞」(南九州市川辺町)の2か所が存在する。ただし雀ヶ宮のほうは片方が擬装用ではなく、両方ともれっきとした念仏洞であるため、当念仏洞とは少しニュアンスが異なる。一方、田部田のほうは片方が擬装用の体をなしているという点では合致するが、念仏洞本丸のほうにも出入口が設けられているため、厳密には当念仏洞と同じではない。つまり市柴の念仏洞は「間道で結ばれた並列する洞窟」であるとともに、「(念仏洞へ行くためには)間道が唯一の出入口」という2つの条件を兼ねた独自の形態をしているのである。
カモフラージュ用の洞窟が作られたは何か。それは「洞窟そのものは見つかる可能性があった」からではないだろうか。見つかる心配がなければ(あるいはもし見つかっても大目に見てもらえる土地柄であれば)わざわざカモフラージュ用を掘る必要はないからだ。ちなみにこの念仏洞の場所から南東12km地点には当時、外城が置かれていた志布志麓があった。もしかするとその影響(監視の目)がここにまで及んでいたのかもしれない。
市柴のかくれ念仏洞について『大隅町誌(改訂版)』(大隅町誌編纂委員会 1990年)から引用する。
市柴に月野一番地があり、ここ、白浜静雄氏宅地の裏山に入口だけ壊されているが、かくれ念仏の穴が残っている。シラスに横穴を掘り、一見、道具置場であるが、この入口近くに横に人一人通れるくらいの抜穴を掘り、そこから直角に奥へ幅四mくらいの横穴を最初の穴と並列する形で十mくらい掘り進み、奥に仏像を安置する棚が掘り込まれている。仏像は光背まで高さ十九㎝くらいの木恵り(※原文ママ)であるが、日常は竹筒に入れて隠していたという。
文中の「幅四mくらい」の部分が私の計測と些か異なるが、それ以外の部分は概ね当を得ているようである(ところで「壊されている」の文言をそのまま受け取るならば、自然による風化ではなく人為的に壊したということだろうか?)。
なお同書には「市柴如来像」という名で、文中の仏像が写真で掲載されている。
光背部分がボロボロなのは「土に埋められていた」か「焼却を免れた」か、それとも「単なる保存状態の問題」か、記載がないため不明である(加えて写真も白黒であるため判断ができない)。そしてこの仏像の現在の所在についても何も述べられていない。よって、この二点に関しては続報を待つしかない。

間道部分が消滅していることは実に惜しいが、当時の構造情報が今日まで伝わっていることは幸いであった。
「カモフラージュ用の洞窟の存在」―。それが市柴の念仏洞の最大の謎であり、魅力でもある。
