宇都のこもり穴跡(うとのこもりあなあと)

DATE
住所鹿児島県姶良市蒲生町漆528
駐車場なし
アクセス
面白さ
訪問日令和8年3月29日

アクセス

県道463号線上、漆地区コミュニティセンター付近の十字路を東に曲がる。

60mほど坂を上り、左の脇道へと入る。

洞窟までの道のり

洞窟までは一本道。

道なりに進み、奥の竹林を目指す。

竹林内の様子。

隅々まで手入れが行き届いていて、とても気持ちがいい。

視線を右の崖に向けると、いくつもの穴が点在。

大半は人も入れないようなあまり奥行きのない穴である。

禁制当時のものか、それよりずっと後世のものか、作られた時代も用途もよく分からない穴たちである。

竹林内の道が少しカーブして坂になっているあたり、ここが目的地となる。

正面からだと草に隠れて見づらいが、赤丸で囲んだ部分に入口がある。

崖下に掘られた洞窟で、地上よりも若干高めの位置(約1m上)に入口が設けられている。

横から見るとこんな感じ。

偶然だろうが、それにしてもうまい具合に草が覆ったものである。

入口は幅0.7m、高さ0.6m。

風化した形跡もなく、きれいな状態で残っていた。

構造と内部の様子

          ▲洞窟内を上から見た図(番号は撮影位置、矢印はカメラの向き)

水平方向の念仏洞。地質はシラス。


内部から見た外の様子。

入口前は土砂が堆積。これは崖の斜面が崩れたものであるが、見たところ禁制時代よりも後のものと思われる。

しかし、そうなると入口が外から丸見えとなるため、当時はおそらく穴の存在が分からないほど前方には竹が群生していたものと想像する。

内部全景。

平たい円柱状の洞内は高さ1.5m。

が、残念ながらこの姿は完全に炭焼き窯である(詳しくは「野間里のかくれ念仏洞」参照)。

洞窟正面にある炭焼きの排煙口跡。

幅0.4m、高さ1m。

ちなみに排煙口両脇の黒い模様は炭を作る際にできた「煤の跡」である。

排煙口の下部には0.1mほどの隙間(窯内で発生した煙をここから上へ逃がす)。奥行きは0.8m。

煙道が上に向かって伸びているはずだが、現在も通じているかは確認できない。

地面の様子。

小石や土塊、木の枝などが散在するも、炭に関しては欠片一つ見つからず。

ここがゴミ捨て場と化していなかったことだけが幸い。


洞窟周辺の様子

漆地区は山に囲まれたV字型の地域である。集落を挟むようにして別府川および前郷川の2つの川が流れており、それに沿って田畑が広がる。心落ち着く牧歌的な雰囲気の地域だ。

先述したように洞窟があるのは民家奥の竹林内である。ちょうど集落の中央部に位置していることからして、ここ漆地区の信仰の中心地だったことがうかがえる。

調査を終えて

はじめに参考資料として『蒲生郷土誌』(蒲生郷土誌編さん委員会 1991年)より関連部分を引用しておく。

漆には、御文庫講、二十五日護摩という、一向宗信者の団体があった。それが更に細かく分かれ、永島殿元、勘元(田之上勘助元)、 善元(内田善助元)、竹牟礼元、二十五日護摩という元 (座元)があった。これらの元には番役という世話役がおり、日常の説教や葬儀を執行していた。この元は、明治二十五年、漆に説教所が創設されるまで続いた。

仏像や木仏像は、すべての人には入手し難く、また発見される恐れがあるため、元に一体又は二体を置き、これを拝む日を毎月一日、二日、九日、十五日、十六日、 二十五日としていた。その拝礼の日には二十五歳以下の二才衆が要所要所に立番をし、赤仁田の鹿倉山や、黒仁田の摩屋敷、あるいは遠く大村の中武辺りに仏像を安置して拝んでいた。また、朝晩の拝礼には夜陰を利用し、 集落近くのかくれ場所に行って拝んだ。そのかくれ場所として伝承されている所は次のようである。

宇都の「こもり穴」   荒田原の「渕の上」   大原の「櫟木迫」   竹牟礼の「野峯口」

右のうち、宇都の「こもり穴」は今も穴が残るが、昭和初期、炭焼き窯に改良されて、往時の姿を残していない。(後略)

最後の一文が、ここの全てである。当時の大きさも形も一切記録にはない。ただ、「ここでかくれ念仏が行われていた」という伝承があることは重要である。


余談であるが「こもり穴」周辺の穴の中で、実はもう一つ洞窟になっている穴がある。それは上の4つの穴の写真の中の左上、ゴミが投げ込まれている場所である。入口のゴミをどけると通路が続いており、突き当たりを右に曲がると15人は入れそうな部屋が現れる。部屋の中央の壁には仏壇がそのまま入りそうな大きな窪みがあり、さらに奥にはおそらく脱出用であろう、もう一本の通路があった(洞内は尋常でないほどのゲジゲジが張り付いていたため、今回は部屋の中には入らなかった)。その形は南九州市川辺町にある「岩屋公園のかくれ念仏洞」に近い。

個人的にはこの穴こそがかくれ念仏洞ではないかと思うのだが(もちろん防空壕の可能性も否定できないが…)、「こもり穴」が該当場所であると言われている以上、現時点ではここを念仏洞と“みなす”より他はない。とは言え、あくまでも伝承であるため、どこかで場所が伝え間違った、なんてこともあり得る話なのである。―と、考えたくなるほど「こもり穴」には全く念仏洞だった頃の形跡がないのである。

穴の正確な場所はさておき、周囲の状況からしてこの辺りがかくれ念仏に適した場所であったことは疑いようもない。

それが確認できただけでも大きな収穫だったといえよう。