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住所 | 鹿児島県姶良市住吉590-1 |
駐車場 | なし |
アクセス | |
面白さ | |
虫の多さ | |
訪問日 | 令和7年1月18日 |

アクセス
住吉神社から県道40号線を東へ230m。
左手に見える脇道へと入り、坂を上っていく。
洞窟までの道のり

脇道のほぼ中間地点に位置する小道に入り、なだらかな坂を60mほど上がる。

坂を上がりきると一軒の民家に到着。
家主の方に趣旨を伝えると、快諾の上、案内までしてくださった。
先導してもらい、倉庫の裏から山へと入っていく。
ここの念仏洞は個人の私有地にあります。訪問の際は必ず許可を得てから入ってください。

民家に平行する形で、人一人が通れるほどの山道を進む。
道なりに歩くだけなので迷うことはない。

ここから山の中へ。
家主によると、かつては定期的に草刈りや伐採も行っていたそうだが、高齢になり足腰が弱くなってしまったことで、現在は手つかずになっているとのこと。
案内がなければ洞窟までたどり着けなかったかもしれない。

山に入ってすぐ、左側の切り立った崖の真下に洞窟があるということで、ここから先は一人で洞窟を目指す(足場が相当悪いので、家主は手前で待機)。


洞窟上部の崖は高さ5.5m。
地質はシラスではなく、水分を多く含む粘土質。

アングルを変えて、崖の上の様子を撮影。
洞窟前方は杉林だったが、崖の上は竹林となっている。

内部が完全に埋まってしまっているので、どこからを入口とするかは難しいところだが、とりあえず私が入口と判断した場所で計測すると幅2m、高さ1.3mであった。
構造と内部の様子

・詳細不明

洞窟内から見た外の様子。
傾斜は40度ほど。地上との高低差がかなりあるので、内部の光はほとんど漏れていなかったものと思われる。

側面の壁。
常に湿り気を帯びた土のため、壁のあちこちが剥落。
そこから考えると、当時はもっと入口は狭かったのかもしれない。

剥落した壁の一部。
一層だけがペロンと剥がれ落ちるものもあれば、このような大きな塊でドスンと落ちることもある模様。

最奥部。
現在の奥行きは入口地点から計って1.3m。
風雨によって外の崖や内部の壁が崩れ、傾斜を伝って内部へと流れ込み、雨で溶けて泥となり、ここまで埋まってしまったようだ。
洞窟周辺の様子
民家裏にある洞窟ということで、その距離は直線にして30m程度。しかしながら生い茂る木々と地面との高低差があるため住宅の位置から洞窟の場所(光・音も含めて)を確認することは不可能である。場所を知らぬ者からすればそこはただの「裏手の山」にしか見えない。
航空写真を見ると、山の裾野に沿うようにして集落が形成されている。よって、洞窟へのアクセスは比較的容易だったのかもしれない。
調査を終えて
調査後に家主の方にお話を伺ったところ、この洞窟は一度にして埋まってしまったものではなく、家主が子どもの頃(70年ほど前)にはすでに兆候が見られ、その後も少しずつ埋まり続け、現在のような姿になっているのだという。
事実、『姶良市誌 第2巻 中世・近世編』(姶良市誌編集委員会著 令和4年)には次にように記載されていた。
先祖から代々寺の番役を勤めていた住吉の今村岩助は、家の後ろの山にある洞窟に本尊を隠し、常に人々に仏法を説いていた。(中略)、岩助が説法した洞窟は、今村家の上方にある比良家裏の墓地を抜けて少し登った所に、大きな口をポッカリ開けて今も残っている。昔は体をかがめて入るほどの入り口だったらしいが、もろい水成岩のため長い間の風雨で崩落し、内部は流れ込んだ泥土でかなり埋まっている。それでも七、八畳敷はあろうかという広さは、岩助にとって格好の説法の場だったのである。
洞窟の具体的な構造については不明だが、「七、八畳敷」とあることから中々の広さだったようだ。この広さなら大人でも楽に20人は座れたであろう。
さて、洞窟は今も現在進行形で埋まり続けている。それに加えて家主の年齢を鑑みても、山そのものが自然に還りつつあり、そう遠くない未来において洞窟は完全に分からなくなってしまうことが予想される。
人によってはそれを勿体ないと言うかもしれないが、信仰ならびに記憶の希薄化という「現在の様相」の含めて私はかくれ念仏だと考える。もともと何もなかった場所に洞窟が造られ、それが幾星霜もの時を経て、何もなかった場所に戻っていく。ただそれだけである。
だからこそ、今回こうして自然に還る前にこうして記録に残せたことを幸運に思う。