幸田のかくれ念仏洞(こうだのかくれねんぶつどう)

DATE
住所鹿児島県姶良郡湧水町幸田1259
駐車場なし
アクセス
面白さ
虫の多さ
訪問日令和6年5月24日

アクセス

県道53号線と県道443号線が交わる栗野幸田の交差点を北東方向へ。

200mほど進むと、右側の土手に「かくれ念仏入口」と書かれた標柱が立っているので、ここから脇道へと入る。

洞窟までの道のり

約100m、道なりに歩くと庭の広い民家が見えてくる。

ちょうど住人の方が庭へ出ていたので、調査の旨を話したところ、快く許可して頂いた。

念仏洞は個人の私有地内にあるため、許可なく 勝手に入らないでください。

庭の左手にある階段を上る。

念仏洞は一段高いところにある模様。

洞窟は階段を上がったすぐ目の前にあった。

先ほどの住人が定期的に手入れされているらしく、草は刈られ、周囲は綺麗に整えられていた。

道路沿いの標柱から歩いて1分52秒。目的地に到着。

見たところ、土手の斜面に掘られた念仏洞のようだ。

土手の上部は小規模な竹林となっている。


入口はコンクリートで補強され、当時の面影はない。

幅48.5cm、高さ87cm。横幅がかなり狭い。

正面には花が供えられていたのだが、造花に交じって生花もきちんと生けられていたことにちょっと感動した。住人の温かさがここにもにあった。

構造と内部の様子

          ▲洞窟内を上から見た図(番号は撮影位置、矢印はカメラの向き)


洞窟内部から見た入口部分。

自然の地形を利用した洞窟とは違い、このような掘削系の洞窟の場合、人の手で掘る(=自由に掘れる)特性を生かして、一般的には入口と内部に高低差を設けるものだが、ここの念仏洞にはそれがない。

地上からは見えない位置に洞窟があるため、作業を省いたのだろうか。

内部は円形でかなり小さい(現存する念仏洞の中で最小だと思う)。崩落防止のため天井一面をコンクリートが覆い、5本の柱がそれを支えていた。

貴重な史跡を守るための仕方のない措置なのだが、「当時のまんまが好き」な私としてはこれは残念なポイント。

左側は壁面までコンクリートで塗り固められた状態。

低い土手ゆえに雨水の染み込みも早く、土がもろくなりやすいのかもしれない。

右側壁面。壁は特徴なし。

地面は香炉や茶器が散乱。

洞窟内部に入る人間は久しくいなかったと思われる。

洞窟上部が竹林ということで、内部も竹が生えていた。

が、光がほとんど入らないせいで、みな途中で枯れてしまっていた。かわいそうに。

入口から一番遠い奥の壁に窪みを発見。

幅22cm、高さ32cm、奥行き16cm。灯明用の穴としては大きいので、本尊用の穴である可能性が高い。

竹の根がもう少し右にずれていたら、この穴は崩れていただろう。

 

洞窟周辺の様子

念仏洞は陣ノ岡山の裾野に位置し、眼下には畑や民家が広がっている。

逆に後方は深い森となっていて人家は皆無。

現在は民家の庭の一部となっているが、立地から見ると、もともとはここは山の中(とは言え、山の奥深くというわけではない)だったようである。

調査を終えて

近くにある照光寺(湧水町幸田)の住職より話を伺ったところ、かつての念仏洞は入口から内部までもっと長い通路があったのだが、崩落により入口と共に通路前方が消失して現在の姿に至ったのだという(したがって、私が今回入ったのは本来の入口ではなく、残された通路部分ということ)。それがもとで補強工事の運びとなったのだそうだ。

話は変わるが、念仏洞の入口前に立っていた説明看板には「内部の広さは2畳ほどで、大人数が集まるには狭すぎるので、本尊などを安置していたものと考えられます」とあった。

加えて、手元にある資料には「ガマを抜けると谷に下りる。そこには50人くらいの集会ができる広場があった。昔は木が鬱蒼と茂り、外から見えない場所であった。ガマの入り口から右に迂回できるが、小道は藪になっていてわかりにくい」(向坊弘道著『隠れ念仏伝承の旅』)と書かれていた。

両者をまとめると、普段は念仏洞に仏具を隠し、集会の際に取り出して運んだということになる。法談の場所ではなく隠し場所であったから、さほど広さは必要なかったということか。

幸田の念仏洞は単なる隠し場所でしかなかったため、他の念仏洞に見られるような特有の工夫は見当たらない。そういう意味では面白みは少ない。ただ、今もなお丁寧に管理され、保存されているその光景には尊いものがある。家主の不断の努力にこそ何よりの価値があり、それこそが「現在」の幸田のかくれ念仏の存在理由となっていると感じた。