中和田のかくれ念仏洞(なかわだのかくれねんぶつどう)

DATE
住所鹿児島県日置市吹上町和田2140
駐車場なし
アクセス
面白さ
虫の多さ
訪問日令和6年12月9日

アクセス

日置市立和田小学校の十字路を350m南下。

左手に田中城跡、その向かい側の電柱に案内看板が立っている。

洞窟までの道のり

案内看板に従い、道路脇の坂道を上る。

傾斜はやや急だが、舗装されているので歩きにくいことはない。

雑木林の中腹あたりで、左手に看板が見えてくる。

坂を上り始めて2分7秒。念仏洞に到着。

高さ10mほどの切り立った崖下に掘られたもので、入口はかなり大きい。

2021年にここを訪れた時は鉄線で侵入できないようになっていたが(写真右)、朽ちてしまったのか今回の訪問ではそれが跡形もなくなくなっていた。

とは言え、入口前の説明看板に「絶対に入らないでください」とあるため、中の探索は諦めることにした。

入口の情報だけ書いておく。

入口は大中小と段階的に小さくなっており、一番大きい入口(手前側)で幅4m、高さ3m。下降して中に入る形で、奥へと続く狭い通路は目測で0.8mほど。

説明看板によると奥行きは30mもあるという。脇道や部屋の記載がないことからすると、一直線状の洞窟ということか。

構造と内部の様子

・シラスを掘って作った横穴式の洞窟。

それ以外は詳細不明


洞窟周辺の様子

念仏洞は金峰山(標高636m)のすそ野に位置している。

洞窟の周囲は木に囲まれてはいるが、別段奥深いという印象はない(尤も、これは道路が整備されている現在の様子であるから、かつてはもっと人が寄り付かない念仏洞であったのかもしれないが)。

最寄りの集落は洞窟を挟むようにして南北にある。その距離は極めて近い。

調査を終えて

自坊にて、昔、父が撮った写真が見つかった(撮影年は1995年)。

父曰く、30年ほど前は洞窟の中に入れたそうだ。

当時の標柱。

私が2021年に訪れた時点では、標柱は入口前の鉄柵にかろうじて残っていたが、今回の訪問では消失していた。

写真を見る限り、当時は草が繁茂していた模様。ならば洞窟入口も草で覆われ、現在よりも分かりにくい状況だったのかもしれない。

入口部分。

ここに関しては現在とほぼ変わらない。

洞窟内部から外に向けて撮影したもの。

入口の先が土砂しか見えないことから、この通路は地上より結構深く掘られたもの(=地上に光が漏れにくい構造)であることが分かる。

通路の幅は一人ずつしか通行できないほどの狭さ。

壁と天井が一続きではなく、境目に段差があるのは他の洞窟には見られない特徴。灯明を置くための工夫だろうか。

最奥部。

通路と比べると幅も広く、半円状の形なので、最奥部は小さな部屋になっているようだ。

なお、説明看板には「崩落による土砂で埋まっています」との記載があったが、写真を見る限り「埋まった」というより「単なる行き止まり」のようである。


『吹上町の文化財と神話・伝説』(吹上町教育委員会 1985年)によると、最初の道路から上がってきた坂道は「阿弥陀坂」という名称だという。これがいつごろから呼ばれていたのかは不明だが、背景にかくれ念仏(厳密には浄土信仰)が影響していたことは間違いない。仮に念仏禁制当時からの名称であるならば、「阿弥陀坂」は仲間内だけで用いていた隠語だったのだろう。

最後に。

今回訪れた「中和田の念仏洞」は鹿児島県下で唯一「入れなくなった洞窟」である。

これが意味することは、「現在は侵入可能な念仏洞も、将来的には入れなくなる可能性がある」ということである。

現在の念仏洞の姿を記録に残しておくことは、パズルの1ピースのようなものだと思う。未来の歴史研究の世界において、大きな一枚絵の断片になってくれるならば、私としても喜ばしいことである。

中和田の念仏洞の今と昔を比べたことで、改めてこの活動の意義を自分の中で再確認する契機となった。今後も地道に活動を続けていこうと思う。