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住所 | 鹿児島県日置市伊集院町土橋2100 |
駐車場 | なし |
アクセス | |
面白さ | |
虫の多さ | |
訪問日 | 令和3年5月4日 |
アクセス
県道206号線と九州新幹線が交差する地点の丁字路を北西方向へ120m。
道路右手の矢印看板が目印。
洞窟までの道のり
看板に従って道なりに進む。
側溝の蓋を辿っていけば迷うことはない。
一件の民家に到着。
そのまま直進し、青いトタン壁の倉庫へと向かう。
倉庫の横に標柱、その上に説明看板が設置されていた。
この二つはもっと分かりやすい場所にあったほうが親切だと思うのだが、洞窟に合わせるように「隠れている」のが面白い。
肝心の洞窟は倉庫の裏側にあった。
道路脇の矢印看板から歩いて1分11秒。目的地に到着。
土手に掘られた洞窟で、上部は竹林となっている。
“戸”が付いているのは、洞窟保全のため。
平常時は戸に鍵がかかっているため中に入ることはできないが、洞窟を管理している願立寺(日置市伊集院町)へ事前に連絡をすると、中を案内してくれる。
この日も住職同伴のもと、鍵を開けて頂いた。
入口は幅0.6m、高さ1m。
ただしこれは本来の入口ではなく、「逃げ道用の出口」だそうだ。住職の話では元の入口は土砂で埋まってしまったため、現在はこちらが入口の代わりとのこと。
構造と内部の様子
▲洞窟内を上から見た図(番号は撮影位置、矢印はカメラの向き)
・シラスを掘って作った横穴式の念仏洞。
・入口から見て左側に小部屋、右側に逃げ道用の通路、という構造。
・内部の高さは2m。小部屋は大人15人が座れる程度の広さ。
①
内側から外を撮影。
高低差は0.5mほど。低くなっているのは出口の存在を外に悟らせないようにするための工夫と予想したが、住職によると高低差による換気を目的としたものだという。
中規模の洞窟ながら天井に換気用の穴がないのはこれが理由だと話してくれた。
②
出口の手前は幅1.5m奥行2m、高さ1.6mのちょっとした部屋となっている。
壁にポコポコと空いている穴は念仏禁制時代のものではなく、もっと時代が下った後のもので、当時の子どもたちが念仏洞へもぐっては遊びで空けた穴の跡だという。
念仏洞自体の歴史的価値は下がってしまうが、これはこれで貴重な歴史遺産である。
③
本来の入口部へと繋がる通路。幅0.5m、高さ1mで、少し湾曲している。
高さがないため、かがんで進む。
狭さに加え、湾曲しているのは、光漏れ・音漏れ対策と思われる。
④
1.5mの通路を抜けると広い部屋に出た。
元の入り口は完全に埋没。土砂崩れ防止のための柵が設けられていた。
その特徴は先ほどの出口よりもさらに高い位置に入口があること。外からだと相当上にあったようである。
⑤
洞窟内にある二つの陶器は洞窟内で頻繁に遊ぶ子ども達に対して当時の大人が「毒が入っているぞ(=実際は空っぽ)。だからここには近づくな」と脅かすために置いたものなのだとか。
これが子ども達にとってどこまで効果があったかは不明だが、「祖先が大事にしていた念仏洞を荒らしてはいけない」という親達の尊崇の念がこの言葉に表れている。
⑥
入口から見て正面にある部屋。
隣が仏法聴聞のための「説法部屋」ということらしいので、こちらは経文を称える「修行部屋」か。
⑦
説法部屋の入口。
願立寺住職と私の妻に先に入ってもらったが、ある程度の広さと高さがあることがお分かりいただけるだろう。
⑦
説法部屋の内部。
当時はこの部屋に掛け軸の本尊をかけて(写真左側の窪んだ壁の部分と思われる)、皆で法談していたという。
現在はコウモリが1匹、無音の中に佇んでいた。
洞窟周辺の様子
山を背にする形で民家裏に作られた地域密着型の念仏洞である。
隣同士で並ぶ複数件の住宅はまるで「住宅一体となって念仏洞の存在を消している」ようにも思える。
竹林と人の声。その二つの音で念仏の声をかき消していたのかもしれない。
調査を終えて
現在、土橋の念仏洞から直線距離にして50mの場所に九州新幹線の線路が走っているが、かつて「ここに新幹線の線路を引く」という計画が出された時、念仏洞は工事の邪魔になるということで取り壊される予定だったらしい。
その計画に反対し、立ち上がったのが、願立寺の住職を筆頭とする願立寺門徒の面々で、幾度となく交渉を重ねた結果、自分らで管理することを条件に取り壊しを撤回させたという。
つまり、今こうして私が土橋の念仏洞を訪れることができるのは、まぎれもなく願立寺の皆さんのお陰なのである。
念仏洞の存続はその土地に住まう者の「念仏洞に対する思い」にかかっていると私は思う。
例えば、鹿児島市谷山にはその昔11カ所の念仏洞が存在していたというが(『谷山市誌』昭和四十二年 谷山市誌編纂委員会著)、現存するものはひとつもない。台風や土砂崩れ等の自然由来で埋没したものもあるが、宅地開発や道路拡張による人為的な理由で壊されたものもある。要するにかくれ念仏の歴史を知らない者にとっては「役に立たないただの穴」にしか見えないということだ。
ただ、それを責めることもできない。それぞれに事情があるのだから、彼らの言い分も認めねばならない。そうでなければ私のワガママになってしまう。
話を戻すが、ここ土橋の念仏洞においては地域住民の思いが「強かった」からこそ「残った」のである。洞窟前に設置された説明看板には「この洞は、がけ崩れにより埋もれていましたが、一九八九(平成元)年地主のご厚意により、願立寺壮年部並びに下土橋の方々によって発掘されました」とあった。これもまた思いの強さによるものだろう。
今回は願立寺住職のご厚意によって大変充実した調査ができた。(ちなみに、願立寺の本堂には当時の殉教者の姿を彫った欄間もかけられており、これも一つ一つ住職が丁寧に解説してくださった)。洞窟内部だけでなく、当時の念仏者の様子や、現在を生きる地域住民の思いといった“かくれ念仏の周辺”にまで詳しく知れたのはここが初めてである。
本来、かくれ念仏というのは「洞窟本体」とその周辺にある「念仏者たちの営み」の両輪が揃ってはじめて意味を持つものである。しかしながらあまりにも時間が経ちすぎていて、後者が今なお伝承されていることは極めて稀なことである。
だからこそ「土橋のかくれ念仏」は数ある念仏洞の中でもひときわ輝く存在である。
息づかいが聞こえる念仏洞として、これからも大切に守り続けてほしいと思う。