吉利のかくれ念仏洞(よしとしのかくれねんぶつどう)

DATE
住所鹿児島県日置市日吉町吉利4564
駐車場なし
アクセス
面白さ
訪問日令和7年12月22日

アクセス

鬼丸神社から140m南下し左折。

1.1km道なりに進むと道路沿いに案内看板。

ちょうど道路が立体交差している地点なので見つけるのは簡単。

洞窟までの道のり

看板そばの坂を上る。

足元はコンクリートで舗装されているうえ、階段状になっているので歩きやすい。

坂の上は平坦な野原。状況からして以前はここに建物があったようだ。

地面が見えないくらい繁茂したシダの海を踏み分けながら奥の崖を目指す。

階段下から計って53秒。洞窟に到着。

崖下に掘られた3つの洞窟が等間隔に並んでいた。

崖の高さはおよそ5m。

その上部は竹林。

構造と内部の様子

▲洞窟内を上から見た図

(番号は撮影位置、矢印はカメラの向き)

・シラスを掘って作った水平方向の洞窟。

・BとCはどちらも一直線で、洞窟内の幅と高さもほぼ同じだが、Bのほうにのみ側道が設けられている。

・Cの壁には四角形の穴が4つ並ぶ。


まずはAの洞窟から。

近づいてみると奥行きがほとんどなかった。

これは「雀ヶ宮のかくれ念仏洞」と同じ、役人を攪乱するための擬装洞窟か。

一応、大きさを記録しておく。

入口は幅1.9m、高さ0.9m。

奥行きは1.3m。

続いてBの洞窟。

こちらはAとは違い、しっかりと奥行きがある。

入口は幅2.1m、高さ1.6m。

洞窟内部から外を撮影。

内部が入口よりも低い位置にあり、地上は見えない。

これはかくれ念仏洞でよく見られる「光漏れ軽減」を狙ったものだろう。

内部の高さは2.4m。余裕で立つことが可能。

幅も1.9mと広めで圧迫感は感じない。

ちなみに奥行きは13.7m。

壁に残る鍬の跡。

これも雀ヶ宮の洞窟そっくりである。

こちらの壁には複数の「謎の穴」。

大きさはこぶし大ほど。

灯明跡にしては小さいし、なにより密集している理由が分からない。

これは一体何だろうか?

「謎の穴」のすぐ隣に側道。幅0.5m、高さ0.9mと小さめ。

奥行きは2mで、奥は袋小路となっている。

祭壇があった場所とも考えられるが、隣のCに繋げるための間道だったという可能性もなくはない。

ただ、そうすると「どうして貫通していないのか」という新たな疑問が生まれることから、ここは素直に祭壇があったと考えたほうが妥当かもしれない。

Bの最奥部。

これと言った特徴はなし。

現在はコウモリの住処。

落書き(落彫り?)の跡。

1962年(昭和37年)にここを訪れた誰かが記念に書いたものらしいが、実に残念な記念である。

最後に右端のCの洞窟に入る。

入口は幅2.2m、高さ1.7m。

Bが丸型だったのに対し、こちらは四角型。

内部から見た外の様子。

これに関してはBと全く同じ。

内部は幅2m、高さは2.5m。

形状も大きさもBに近いが、奥行きに関しては11.2mと若干短い。

入口付近に設けられている4つの壁の穴。

その大きさは平均して幅0.4m、高さ0.5m(一番手前のみ1.2m)、奥行き0.4mくらいであった。

形状的には祭壇跡のようにも見えるが、4つ並んでいるところを見ると別の用途のものかもしれない。

左に縦長(高さ0.3m)、右に鉤状の溝。

先の落書きと比べると、線の幅と深さが異なることから、こちらは灯明跡か。

C最奥部。

これまたBと同じく、これと言った特徴はなし。

しいて言えば、地面が少し抉れているのがBとの違い。

Cの右側は崖上と繋がる坂道となっている。

よくよく観察すると、そこには道らしき跡も残っていることから、ここはいざという時に森に逃げ込むための避難経路だったのだろう。

洞窟周辺の様子

念仏洞のある白井月集落は南北を森で囲まれた静かな地域である。中央を通る道路は奥で袋小路となっているため、念仏洞見学の後は元来た道をUターンして引き返さなければならない。

家はまばらで、地元の方に聞くと「昔は20~30件、人が住んでいたが今では5件ほどになった」とのこと。

念仏洞は集落のちょうど中間地点にあることから、当時は地域の信仰の中心地として存在していたのだろう。

調査を終えて

吉利の念仏洞について『日吉町郷土誌』(日吉町郷土誌編さん委員会 昭和63年)に詳しい話が載っていたので、長文になるがここに全文引用する(読みやすさを優先し、ここでは文章内の漢数字を算用数字に変換している)。

鬼丸神社の下の南側の道を東へ進むと、白井月の集落がある。以前は二十数戸あったが、今は過疎となって十数戸の人家が点在している。道を更に奥へ進むと、左側の一段高い所が杉林となり、中に昔の井戸がそのまま残っているが、ここが鳩野家の屋敷跡である(当主鳩野ミツ、83歳、吉利麓居住)。屋敷の裏(北側)はシラスの崖で上は山になっている。かくれ念仏の洞穴はこの屋敷の東方のすぐ裏のシラス崖の下に掘られている。入り口の幅約1.8メートル、高さおよそ2メートル、奥に向かって相当深く掘られている(約12メートル)。

この洞穴について、前記鳩野ミツが舅(故人鳩野仁之助) から常々聞かされた話は次のようなことである。「昔、吉利で法難崩れというのがあって、麓の旦那衆が遠い島(喜界島)に流された時、自分の家にかくしてひそかに祭っていた仏様をここの穴にこっそり運んでかくされたそうだ。そして残された家族たちは時々かくれてここに拝みに来ておられたということである」と。

法難崩れで (弘化年間=1844~1848) 難に遭った麓の郷士たちは、島に流される直前に自家の仏壇をここに運び込み、安堵して島へ流されていったのであろう。そして配流中は家族の人たちが人目を忍んでここにお参りしたのではなかろうか。既述のとおり、島流しに遭った人たちも小松帯刀が襲封するに及び、翌年(安政4年=1857)一挙にその罪を赦され郷里吉利へ帰還したが、当時はまだ禁制中だったので、帰還後も仏壇はそのままこの洞穴に安置し、時折参詣したり法座に集まったりしていたものと思われる。ここはこの法難崩れの事件発生より以前、すなわち禁制時代からずっと、こよなき隠れ場所として念仏の法座が開かれていた。だからこそ、ここに目をつけ仏壇を隠す最適の場として選んだのではなかろうか。現存する町内かくれ念仏の遺跡(経穴) としてはここが唯一の完全な洞穴である。

明治9年解禁後、ここに隠し祭ってあった仏壇はそれぞれ自宅へ持ち帰ったが、長い間(弘化年間より明治9年までおよそ30年)穴の中に安置してあったため、御厨子の扉の蝶つがいその他の金具は腐食して駄目になっていたので、それらを取りまとめて屋敷内の畑地に埋めて碑を建てた。そしてこの時から嶋野家ではこの碑を氏神として祭るようになったという(仁之助談)、最近この碑石は吉利麓の鳩野家の庭先に移されているが、碑面には氏神と刻んである。

これでCの壁にあった四角い穴が、仏壇を安置していた穴であることがはっきりした。「郷士たち」とあることから運び込まれた仏壇は複数であり、それが連続する4つの穴の正体というわけだ。そして洞窟が掘られた当初には4つの穴はなく、法難崩れが契機となって壁が掘られたということも明らかになった。

洞窟に運ぶ前までは仏壇を自家で持っていたというが、それならば平時は本尊を入れ替えていたのかもしれない。昼間は釈迦如来(禅宗)にしておき、日が暮れると阿弥陀如来に替えていたのではないだろうか。洞窟に運び入れてからは当然、阿弥陀一仏となったはずである。

それにしても30年の時を経て、仏壇を再び我が家へ迎え入れられたことは当人らにとってどれほどの喜びだったか察するに余りある。おそらくこの30年の間に亡くなられた方もいたことだろう。生き残ったかくれ念仏者と共に仏壇もまたこの苦難の歴史の生き証人なのである。

当時の仏壇が今も現存しているのか、これについては不明だが、もしまだどこかのお宅で大切にされているのならば一度拝見したいものである。

ちなみに吉利のかくれ念仏洞の70m手前にも実は洞窟が存在する。

右は奥行き2mほどの浅い洞窟であるが、左は奥行きが12.6mで、内部の様子(幅1.8m、高さ1.7で一直線の構造)も吉利のかくれ念仏洞と極めて近い形をしている。

とは言え、個人的にはこの洞窟が「念仏洞であるという確かな資料がないこと」、そして「道路から丸見えであること」という二点から、ここは防空壕の可能性が高いと思っている。

ここで改めて考えてみると、『日吉町郷土誌』で記載されている洞窟は1つである。奥行きの距離からしてこれはCの洞窟を指している。AはともかくとしてBについては何も書かれていない。ということは本当のかくれ念仏洞はCのみで(禁制時代はCのみが存在していた)、AとBはそれよりもずっと後の、戦時中に造られた防空壕跡なのかもしれない。

Bが念仏洞か防空壕かの議論は今後に譲るとして、Cがかくれ念仏洞であることは間違いない。

仏壇を納めるための穴が壁に掘られているのはここをおいて他になく、それがここの最大の特徴である。しかし我々はその由緒も知っておかねばならない。仏壇を隠すに至った経緯を知ることで、禁制時代の厳しさと人々の苦悩が、より一層明らかになるからである。