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| 住所 | 鹿児島県鹿児島市本名町6334-7 |
| 駐車場 | なし |
| アクセス | |
| 面白さ | |
| 虫 | |
| 訪問日 | 令和3年10月13日 |

アクセス
県道40号線と県道16号線が交わる交差点から北東へ50m。
道路沿いに標柱と大きな説明看板が立つ。
洞窟までの道のり

竹で作られた階段を上る。
所どころ足場の竹が割れていたり、消失している箇所もあるが、鉄パイプの手すりが備え付けられているので歩行は容易。

階段を上りきると今度は下り坂。
洞窟上部は見ての通り竹林となっている。

道路沿いの標柱から1分。入口に到着。
竹林の崖下に掘られた洞窟である。

入口は幅0.75m、高さ1m。
一般的な念仏洞と同じく、内部の光が外に漏れないようにするための「入口部分が高い構造」である。
ただし、その傾斜角は掘削系念仏洞の中で随一である。
構造と内部の様子

▲洞窟内を上から見た図(番号は撮影位置、矢印はカメラの向き)
・シラスを掘って作った水平方向の念仏洞。
・通路を右→左→右と曲がった先に大部屋。広さは大人15~20人が座れる程度。
・大部屋には3か所の灯明跡と1つの空気穴が存在する。

①
傾斜角度は約50度ほどか。
下りるよりも上ることが困難なため、補助ロープが手すりに備え付けられている。
これを使ってまずは3.7mほど下っていく。

②
最下層から見た外の様子。
手すりの上段しか見えないことからも相当な深さであることが分かる。 これだけ深いと、もっと土砂や落ち葉が流れ込みそうなものだが、実際に入ってみると意外にも綺麗だった。おそらく定期的に掃除がされているようだ。

③
ここからは地面が水平になる。
通路は幅0.6m、高さ0.9m。
狭いので壁と天井を傷つけないよう体を小さくして進む。
通路の先は大きく左に湾曲。
これは内部の光漏れ・音漏れ対策である。

④
道が左右に分かれる地点。
ここまで来ると、外の音はもうほとんど聞こえない。

⑤
通路左側にある小部屋。
幅0.8m、高さ0.8m、奥行き2.5m。
一人用の修行洞窟だろうか。
その手前には古い蝋燭と共に煤跡の残る灯明穴。

⑥
通路右側が大部屋。
左右の壁に灯明用の穴、天井部には空気穴。
大人数が収容できることから、こちらは説法洞窟だろう。
一番奥には仏壇。
ただ、それ以上に壁のゲジゲジが否が応でも目に入る。

⑦
最奥部にある仏壇。傷みが激しい。
ちなみに部屋自体の湿度は低めで、気温も涼しい。
ゲジゲジがいなければ、落ち着いてお参りができる心地よい空間である。

⑧
3カ所ある灯明跡はいずれも同じ形状。
台座(=木片に釘を刺したもの)に取り付けられた蝋燭は昭和の頃のものだろうか。
※補足:当時の灯明は油皿を用いてた。

⑨
部屋のほぼ中央に位置する空気穴。
現在も外まで続いているのかは分からないが、手元のメジャーで計ると少なくとも2.7mは続いていることが確認できた。
空気穴の存在から、ここは大人数での法座があったことが想像できる。

ロープを伝って最初の場所へ。
高台にあるため見晴らしが良い。

洞窟下の住宅側からも撮影。
下から見上げると、洞窟の存在にはまず気づかない。
洞窟周辺の様子
念仏洞周辺は東西に延びる本名川に沿って水田が広がる地域である。住宅は山裾に点在し、山を背にした住宅が多い。
都迫の念仏洞もまた同じで、民家裏という立地と内部の部屋の大きさを鑑みると、ここが集落における信仰の中心的場所だったと考えられる。
調査を終えて
真宗禁制時代の殉教者の話を克明に記した『血は輝く』(初版本は大正14年)は著者の佐々木教正氏が遺族から直接聞いた話を集めたものである。その中に「都迫の念仏かくれ窟」も紹介されているのでここに一部抜粋する。
吉田村は東佐多、西佐多、本城、本名、前河内、後河内、倉之谷、宮之浦などの部落から成り、鹿児島をあまり遠く離れぬ地であるが、昔時は東佐多の部落を除いて多くは不便な地であった。毎年六月二十日には『宗門改め』が行われたが、土地の不便を利として講は結ばれ念仏の声は広まった。古老の話によれば各部落には幾つかの洞穴が掘られて、そこを御講仏の巡回安置の場所として静かに読経が行われたという。著者が実地調査した洞穴だけでも三、四はある。
(中略)
更に本名の西貞助宅後方に当たる洞穴は、西園半次郎らが掘ったものであり、内部の構造はよほど巧みで入口は北に五尺ほど入って左に五、六尺進み、更に右に曲がって一間入った所で又右に向かって作られている。長さ一丈二尺(約四メートル)、幅七尺(二メートル余)、高さ五尺五寸(約一・七メートル)の洞穴である。この中で炭火を用いた形跡がある。なおこの穴を掘るとき使用した鍬の跡が明瞭に付いている軽石と、炭と瀬戸物の破片を発見した。
ここがいつごろ掘られ、どれくらいの期間で完成したのかは不明であるが、この規模の洞窟を、しかも地中深い場所で、人力で掘ったことは驚嘆に値する。見つからないための工夫とはいえ、入口部分の深さと急傾斜は内部の土を外に運搬するのに相当な苦労であったに違いない。それを可能にしたのは、ひとえに信仰の強さと結束力の賜物である。
少し話は変わるが、本名町の隣にある本城町にもかつて「宇都谷のかくれ窟」という念仏洞があった。鹿児島市の文化財指定も受けていた洞窟だったが、滅失により昭和63年4月20日に指定解除となっている。私が思うに、滅失した理由はその立地にありそうである。鹿児島別院本名出張所のホームページによれば宇都谷のかくれ窟は「奥深い山腹に」あったという。自然の影響を受けやすいうえ、しかも人がほとんど訪れない場所であったことから、手入れ・管理もされずに静かに潰えてしまったのだろう。
そういう意味からすると、都迫の念仏かくれ窟は人家に近かったことが幸いしたのかもしれない。管理者の定期的なケアのお陰で今なお綺麗な状態で保たれているからである。
『血は輝く』には著者が訪れた吉田村の念仏洞がここを含め、全部で4カ所書かれている。しかし2025年現在、残存しているものはここだけである。初版本が発行された大正14年から数えて奇しくも今年は100年目にあたる。消失しても何ら不思議ではないのに、こうして1ヶ所残っていることがどれだけすごいことなのか、お分かりいただけよう。
「都迫の念仏かくれ窟」はまさに本名町(旧吉田村)の信仰の深さを体現している歴史の生き証人なのである。
