DATE | |
住所 | 鹿児島県鹿児島市上谷口町1111 |
駐車場 | なし |
アクセス | |
面白さ | |
虫の多さ | |
訪問日 | 令和5年12月22日 |
アクセス
JR薩摩松元駅から350m東にあるバス停「柿元」を目印に、北側の小道へと入り、道なりに進んでいく。
洞窟までの道のり
小道の先の分かれ道は左へ。
線路の真下を通る。
ちなみに念仏洞へ至る道はここしかないのだが、初めて訪れた時は「本当にこの道で合っているのか?」と不信感を覚えた。
せめて案内看板の一つでもつけてほしいものである。
トンネルをくぐり左へ進むと数件の家が見えてくる。
しかしそのほとんどは空き家らしく、人の気配はない。
白い住宅(空き家)の敷地から中に入る。
突き当りを右へ。
青い屋根の住宅には人が住んでいるようなので在宅の場合は許可を得てから入ってください。
洞窟の場所は住宅裏の高さ5mほどの土手の上。
この位置からは洞窟は見えない。
土手を上がるにつれ、だんだんと入口が見えてくる。
斜面に掘られた入口は地上から見えないように可能な限り下方に向けて設けられていた。
バス停から歩いて3分。念仏洞の入口に到着。
離れた場所からは小さく見えたが、近づいてみると意外にも入口は大きく、幅3.3m、高さ1.7mもあった。
構造と内部の様子
▲洞窟内を上から見た図(番号は撮影位置、矢印はカメラの向き)
・斜面に掘られた横穴式の念仏洞。地質は軽石を含むシラス。そのため内部は大小さまざまな軽石がゴロゴロと転がっている。
・入口から向かって左側に小部屋、そして正面右手に間道が設けられているが、どちらも入口からは見えないように設計されている。
・間道の距離は13m。緩やかに左へ湾曲し、間道の後半は下り坂になっている。
①
内部から入口部を撮影。
内部の明かり漏れを防ぐ目的で入口を高く設けている点は他の念仏洞と共通しているが、傾斜が結構ある。 私の知る限りでは都迫のかくれ念仏、飯牟礼のかくれ念仏に次いで3番目である。
②
洞窟内左側。
間口を広く取ってあるため入口からはここが小さな部屋のように見えていたが、その先に通路があった。部屋のように見えたこの場所は、通路を隠す意味は勿論のこと、声や光を軽減させるための工夫であろう。
③
通路の反対側。埋没したのか、それとも初めから行き止まりだったのか、見た限りではどちらとも言えない。
④
奥へと続く通路。幅、高さ共に1mほど。
天井にはコウモリが2匹ぶら下がっていた。
⑤
小部屋。幅3.2m、奥行き2.7m、高さ1.4m。大人10人程度が座れる広さがあった。
燭台の跡のような窪みが壁にないことから、明かりは手燭を利用したのだろうか。
現在はコウモリの住処と化している。
⑥
入口正面の最奥部。
その手前に間道があった。
ここも入口からは見えづらい角度になっている。
⑦
間道の入口。幅0.8m、高さ1mとかなり狭い。
狭い理由は雀ヶ宮の念仏洞のような追手対策か。
なお、壁や天井にはゲジゲジが大量にくっついていた。天井が低い分、雀ヶ宮の念仏洞よりも恐怖感がある。体を小さくし、息をひそめて慎重に進む。
⑧
間道の内部は幅0.5m、高さ1mで、距離は約13m。
不思議なことに間道には軽石が一直線に敷いてあった。軽石の白さを利用した道しるべ的なものか、はたまた追手対策としてわざと足場を悪路にしたものか。
⑨
間道を抜けた先には一直線の洞窟があった。
高さは1.7m。
ゴミが投げ込まれているのはここに限ったことではないが、竿が刺さったままになっているのは興味深い。
後の人間がこの洞窟を何らかの形で利用していたのだろうか。
⑩
最奥部。
小さいながら不自然な窪みが一つ。
一応、中を確認したが、特に何も見つけられず。
⑪
地面には朽ち果てた蝋燭立てが一つ転がっていた。
祭壇用に用いていたものならば、なかなか貴重である。
写真左上の靴跡は私のものなので、お気になさらず。
⑫
壁に彫られた窪みは幅0.6m、奥行き0.2m、高さ0.9m。
本尊を安置していた場所だろうか。
蝋燭立てが落ちていた場所とも近いので関連性は高い。
⑬
この洞窟の入口付近。
やはり最初の洞窟同様、入口が高い。
だが傾斜はそこまで急ではなかった。
⑭
外に出て撮影。
こちらの入口は幅0.6m、高さ0.8mとかなり小さい。
一方の入口を極端に大きくすることで、こちら側の存在に気づかせないようにする工夫だうか。もしそうならば緊急時の脱出の際に大いに役立ったに違いない。
洞窟周辺の様子
現在は正面に線路が走り、それに伴う住宅化で当時の面影は皆無。だが、民家裏に位置していることから生活圏内の洞窟であったことは疑いようがない。
洞窟の規模としては大きいほうなので、当時もそこそこ周囲に家はあったと推測する。
調査を終えて
調査後に日置市立中央図書館に立ち寄ったところ、『松元町郷土誌』(昭和61年 松元町郷土誌編さん委員会著)に次のような記述があった。
柿元の隠れ念仏の洞穴
上柿元家の本家上柿元末盛の裏山(高さ約六〇㍍)の南側の崖にある。下図のとおり穴が二つあって、左の穴を下りて七㍍ほど進むと、シラスの壁に突き当たる。右に曲がって進むと目的のお修業洞穴で、地面は軽石をかき除いた跡がある。また座る場所もある。地床から約一㍍の高さの所に、奥行き三〇㌢、高さ一〇㌢の穴が壁にある。(右図ア印の場所)ここに御本尊を置いて皆で拝んだらしい。
右の穴は出口があり、これは昭和二十年、第二次世界大戦末期にアメリカ軍の空襲を避ける防空壕として一部分を掘ったため、出入口ができたという。ここを案内した同地域の上柿元勝次(七五)は「私の祖父庄助が『あの穴に隠れて仁王さんをした』と語っていた」と証言してくれた。祖父庄助は昭和十二年八十五歳で他界した。
まず驚いたのが、本に掲載されている平面図が私の記録したものとかなり違っていた点だ。
左の穴の「お修行洞穴」は本のように大きく右に張り出す通路のようなものではなく、実際は円形状の小部屋であった(壁の穴というものもなかったのだが、これは崩れてしまったのかもしれない)。右の穴も本では全体が細長い通路のように描かれているが、実際は明確に“通路の部分”と“洞窟の部分”がある。
これは私の推測だが、本の平面図は実際に見て書かれたものではなく、伝聞によって製作されたものなのではないか。
もう一つ驚いたのは、右の穴にはもともと出入口はなかったという点である。
袋小路だった洞窟を防空壕として利用するために外と開通させたということだが、これは少し疑問が残る。入口が小さすぎるからである。
急いで逃げ込まなければならないのだから、常識的に考えて入口は大きく造るはずである。にも関わらず、幅0.6m、高さ0.8mというのはいくらなんでも小さすぎやしないだろうか。「追っ手を欺くための緊急避難用の出口として当時から存在していた」というほうが理屈が通る気がするのだが、いかがだろうか。
今のところ他に史料がなくこれ以上の考察はできないが、一つだけ明らかなことは「この洞窟は間違いなくかくれ念仏が行われていた場所」ということである。それだけでも十分な収穫である。
鹿児島市の文化財として登録もされているのだから、もう少しクローズアップされてもいいようにも思えるが、崩落の危険性を考えるとあまり公にしないほうが「洞窟の維持」という観点からいえば正解なのかもしれない。
柿元のかくれ念仏洞は場所も由緒も“ちょっとわかりにくい”洞窟である。