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| 住所 | 鹿児島県鹿児島市平川町3624-2 |
| 駐車場 | あり |
| アクセス | |
| 面白さ | |
| 虫 | |
| 訪問日 | 令和8年3月21日 |

アクセス
県道23号線を「平川町」の交差点から600m上った後、右折。
そこから平川動物公園方面へ850m進み、「烏帽子岳自然遊歩道」の看板がある脇道へと入る(上の写真はその先にある駐車場)。
洞窟までの道のり

Googleマップ上には表示されてないが、駐車場の先にも道は続く(遊歩道なので車での通行は不可)。
町の喧騒とは無縁の、人影もない静かな場所である。

2分ほど林道を歩くと、右側の竹林の中にポツンと一基だけ墓が見えてくる。陶製の歌舞伎人形を目印に竹林の中へと入っていく。

墓の前を過ぎ、坂を下る。

道中は一本道になっているので迷うことはない。

ある程度進むと右側から水の音が聞こえてくる。
川が近いようだ。
一方、道はだんだんと倒竹が目立つように…。
竹をくぐったり、跨いだりしながら、さらに坂を下りていく。

坂を下りきり谷底へ。
川には橋が架かり、道はその先も続いている。
橋の上に立った時、下流側に見える大きな岩が当念仏洞である。

駐車場から6分49秒。
岩には左右に穴があるが、念仏洞は左側。
ちなみに岩の高さは3.4m。

入口は幅0.8m、高さ1.8m。
隣り合う2つの岩の「隙間」が入口。
その狭さゆえ、立って入ることは難しく、ひざまずいて中に入る。
構造と内部の様子

▲洞窟内を上から見た図(番号は撮影位置、矢印はカメラの向き)
・岩の隙間を利用した水平方向の念仏洞。
・洞窟内の高さは最大で3m。内部の広さは大人2~3人が入る程度。

①
洞窟内から見た外の様子。
入口は内と外で水平。これほどの森の中なら光漏れを気にすることもないので当然である。
また、川の音も大きく、話し声程度の音量ならば対岸にすら届かない。

②
内部は先細りになっていて、とにかく狭い。
一度に入れる人数もおそらく2~3人が限度だろうから、代わるがわるに参拝していたのかもしれない。

③
中央にある「台のようなもの」は0.4m四方。
番役か布教使が座るための場所だったか、それともここに本尊を置いていたのか。

④
洞窟上部。こちらも先細り。
よってここは三角錐の洞窟ということになる。

⑤
最奥部。
ここにも岩と岩の隙間に挟まる形で、台のようになっている小石がある(大きさは0.1m四方)。
本尊を置けなくもないが、万一、落としてしまったら取れなくなってしまう恐れがあるので、ここを本尊跡と考えるのは少し無理があるかもしれない。

ついでにこちらは念仏洞の隣(右側)の穴。
入口は幅1.1m、高さ1.2m。
近づいてみると、それほど奥行きのない穴だった。

奥行きは最大で1.2m。
人が入ることも可能ではあるが、隠れることができないので、こちらはおそらく念仏洞ではない。
洞窟周辺の様子
洞窟は深い山間の渓谷にある。
目の前を流れるのは五位野川。洞窟の正面には竹林、後方には杉林が広がっている。
付近に人家は一件もなく、最も近い集落でも直線距離にして約1km離れている。
先述したように橋の先にも道があるため、ここは昔の旧道だったと思われる。
調査を終えて
高野の念仏洞については『谷山市誌』(谷山市誌編纂委員会 1967年)に次のように紹介されている。
高野の新原景行氏の家の附近で、五位野川上流に沿うた岩窟である。高野と木屋宇都部落は南北に離れた二里近い遠地でありながら、仏縁によるのかこの二つのみの部落で講をつくり、御本尊を一年交替でうつして部落の信者はかくれ信仰をつづけたのである。高野でこの洞窟にかくれて拝んだという。御本尊をうつす場合は百姓の姿に変装し、ふごの中に本尊をうまく隠して運んだし、ある場合は肥桶を用いとも伝えている。こんな辺ぴなところでも用心しなければならなかったかと、禁制のきびしさを再認識せざるを得ない。
ここに高野と木屋宇都という2つの集落の名が登場しているが、2026年現在、高野には民家が一軒もなく地名しか残っていない(木屋宇都のほうには民家あり)。真宗禁制解禁後の150年の間に高野の人々は郷里を離れ、よそへ移住してしまったようだ。
さて、洞窟の調査を終え、元来た道を戻っていた時のことだった。例の「一基だけの墓」の場所に複数の人影があった。なんとそこにいたのは上に出ている新原景行氏の孫にあたる方(70代男性)で、この日はちょうど彼岸ということで家族を連れて墓参りに来ていたのである。
こんな偶然もあるのか、と内心驚きつつ、男性に念仏洞について何か知っていることはないか尋ねてみると、その方が言うには「祖父の代までは使われていたらしいが、自分は60年くらい前に行ったのを最後に、以来その場所には近づいたことがない」とのこと。ただその頃には「祠があった」という。この祠というのものが石祠のような人工物の建物を指しているのか、それとも念仏洞の穴のことを指しているのか、そのあたりのことはハッキリしなかったが、なにはともあれ念仏洞の存在を知っている生き証人に出遇えたことは自分にとって非常に大きな収穫だった。
そもそもこの高野の念仏洞の存在を知っている者が今の時代において一体どれほどいるだろうか。
私の調べでは、この名が出てくるのは『谷山市誌』と『鹿児島市文化財基本調査報告書』の2冊のみである。ただどちらも場所の記載はなく、手がかりになるのは「新原景行氏の家の附近」「五位野川上流に沿うた岩窟」くらいで、その他一切の情報はない。かく言う私も二度目の調査(平川動物公園付近からひたすら五位野川を遡上していった)でようやく発見することができたほどで、見つけられたのは本当に偶然でしかない。
シラスの洞窟と違って、ここは岩窟であるため洞窟自体が消滅する可能性は低いといえるが、洞窟自体の消滅よりも先に伝承者が途絶える可能性が極めて高く、そういう意味では高野の念仏洞は「もう間もなく存在が消える(=忘れ去られる)洞窟」と言い換えることができよう。
自然的・人為的要因によって崩れる(崩される)洞窟もあれば、崩れずとも伝承から消えゆく洞窟もある。
この事実に対し、「喜ぶ者」と「危ぶむ者」と「無関心の者」がいる。
高野の念仏洞はその象徴なのかもしれない。
