清水桜元のかくれ念仏洞(きよみずさくらもとのかくれねんぶつどう)

DATE
住所鹿児島県南九州市川辺町清水1297
駐車場なし
アクセス
面白さ
虫の多さ
訪問日令和3年4月27日

アクセス

国道225線から岩屋公園へ続く道に入る。道なりに進み、岩屋公園前を通過。

万之瀬川を渡って350mほど行くと、上の写真にある看板群が見えてくるので、この交差点を北上する。

洞窟までの道のり

上の看板の地点から直進すると突き当りに側溝が現れる。案内看板等は何もないが、そのまま側溝の中を歩いていく。

側溝の分岐地点に案内看板。

矢印に従って右手へ。 個人的にはここに立てるよりも、手前の側溝入口に立てたほうが親切な気がするのだが…。


側溝の入口から歩いて1分。念仏洞に到着。

入口は小さな丘の斜面にある。

完全に周囲に溶け込んでいるため、もし標柱や階段がなければ気づかないかもしれない。

洞窟の入口。幅0.7m、高さ1.1m。

一般的な念仏洞は入口を内部より高く造ることが多いが、ここの場合は入口と中の通路がほぼ水平に近い。 おそらくこれは洞窟そのものが地上より高い位置(斜面の中腹)にあるからだと思われる。

構造と内部の様子

          ▲洞窟内を上から見た図(番号は撮影位置、矢印はカメラの向き)


通路の幅と高さは入口と同じ。長さは1.2m。

少し右に湾曲していて、入口から直接内部は見えない。

内部の部屋から通路を撮影。

通路には外からの光が差し込むが、内部にはほとんど届かない逆に言えば内部の光も外には漏れにくい)。

ちなみに通路にも部屋にも壁に蝋燭を置くような窪み等は一切ない。

内部の様子。

部屋中央部に四角く削られた壁が一つあるだけのシンプルな構造。

奥に見えるのは脱出用の出口。

2つの出入口によって内部の風通しはいい。

壁の窪みは幅1.4m、高さ1.3m、奥行き0.4m。

ここに掛け軸をかけて礼拝、および法談が行われていたのだろう。

現在はゲジゲジが徘徊中…。

奥に進むにつれ、だんだんと部屋が細くなり、脱出用の出口へと繋がる。

入口は内部との高低差がなかったが、出口に関しては砂(=シラス)が盛られ、内部よりも 高めに造られている。

外から見た出口の様子。

幅0.85m、高さ0.7m。

入口は縦長の卵型だったのに対し、出口はやや横長の蒲鉾型になっているのは、逃げやすさを考慮してのことか。

入口と出口の位置関係(写真左側が入口、右側が出口)。

距離は4.5mとさほど離れていないが、張り出した土手によって両者は二分されており、入口の位置からは出口が見えないようになっている。

これは雀ヶ宮の念仏洞と同じ、目の錯覚を利用した逃走用の工夫である。

 


出口の向こう側は谷になっている。

洞窟前にある標柱の説明書きによると、役人が見回りに来たときは谷をつたって鳴野原へ逃げていたという。

鳴野原はここより北東へ1.5km離れたところにある平野だが、ちょうどそれに沿うようにして森が続いているため、避難経路として利用されていたようだ。

洞窟周辺の様子

洞窟は林の中にあるものの、林自体は決して深いものではない。

50mもない距離に桜元集落の家々が並んでいることからしても、「人家に近い念仏洞」として機能していたものと思われる。

その分、発見される危険性と常に隣り合わせだったことは、洞窟の脱出用出口がそれを物語っている。

調査を終えて

ここ川辺町は現存する念仏洞が6つという、県内最多の洞窟を有する町である。

その背景には、

 ・運よく天災による自然的破壊に見舞われなかったこと

 ・都市部に比べて宅地開発や道路拡張などの人為的破壊が少ないこと

 ・きちんと保存され、かつその存在が今日まで伝承されてきたこと

等の偶発的な諸条件によるものが大きい。

それはさておき、町内に点在する念仏洞に共通していることが一つある。

それはいずれも「人家に近い」点だ。

基本的に念仏洞というのは、その存在を知られてはならないことが主たる目的であるから、なるべく「人家から離す」ことがセオリーである。そのほうが捜査範囲も広がり、監視の目も掻い潜りやすいからである。

しかしながら川辺町の念仏洞の場合、その考えに逆行する。これはどういうことか。

私が思うに「川辺町は他の町と比べて比較的監視が手薄だった」のではないだろうか。

その当時、島津氏は外城制(県内各地に武士を配置する政策)を実施した。そこで生まれたのが麓集落(武家屋敷を中心とする地域単位の城下町)である。

川辺町の西には「加世田麓」があり、東には「知覧麓」があった。川辺町はその丁度中間に位置する。武士の比率をグラデーションで考えると、両端(加世田・知覧)は濃く、中央(川辺)は薄くなる。監視が少ないのであれば、わざわざ遠くに洞窟を造る必要はない。そういう理由から「人家に近い」念仏洞になったと推察する。

なお、ここ「清水桜元の念仏洞」には念仏洞の手前に「念仏洞のような洞窟」が二つある。

最初に見た側溝の正面にある穴(幅0.9m、高さ2.3m、奥行き8m)
左の穴から5mほど右にある2つ目の穴(幅1m、高さ0.9m、奥行き5m)

ただ、どちらも細長い通路のみで、部屋はない。

仏具を隠すための穴だったのか、それとも後世(戦時中)の防空壕の跡なのか現時点では不明。

これについては今後の課題としたい。